指揮者とその「力」
指揮者というのは極めて特殊な職業だ。
音楽家であるにも関わらず音を出すことはない。ステージの上では唯一観客に背を向けて立つ。ときには100名を超える音楽家集団をひとつにまとめ上げて、数十分の楽曲を楽譜に沿って再現していく。再現しながら、楽譜に書かれている以上のものを作り上げていく。使えるのは楽譜と頼りない指揮棒だけだ。
不思議な職業だと思う。
指揮者だからといってオーケストラで使用される楽器の全てを弾けるわけではない。しかし、それでも一流の技術を持つ奏者たちに指示を出し、個の力を超えたものを作りあげていかなければならない。スポーツでは競技経験のない人が監督をやるということは稀だろう。しかし、それをやるのが、やらなければならないのが指揮者である。
指揮棒ひとつで数十人のプロ奏者に対峙し、彼ら/彼女らをリードしながら音楽を作り上げる。どんな経験や技術があれば、そんなことを実現できるのか。皆目見当がつかない。
それでも、アマチュアのオーケストラに参加して、プロの指揮者のもとで演奏した経験がある自分の立場から言えることがあるとすれば、一流の指揮者は人を動かす「力」を持っている、ということだ。
指揮台に立ち、指揮棒を振り下ろす。
指揮者が作ろうとしている音楽の流れがわかる。その流れの中でどのタイミングで音を出すのがふさわしいのかがわかる。その流れにどう乗ればいいのかもわかる。奏者は流れを作りながら流れに浸っている。
コンサートは、ステージ上の奏者が観客に音楽を届けるという一方的なものではない。
ステージ上では指揮者と奏者、奏者同士でも伝え合っている。伝わったことがわかる、そこに音楽の喜びがある。その喜びの起点に指揮者は立っている。
ケイト・ブランシェットは、その「力」を持つ人物、リディア・ターを見事に表現している。
巨匠レナード・バーンスタインの弟子であり、世界最高峰のオーケストラであるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で女性初の首席指揮者を長きに渡って務めているリディア・ター。作中では、エミー賞(Emmy)、グラミー賞(Grammy)、アカデミー賞/オスカー(Oscar)、トニー賞(Tony)の全てを受賞したと人物(頭文字を取ってEGOT)の1人とされている。
22年のキャリアで3本しか作品がない寡作の監督トッド・フィールド。彼女のために当て書きをして作った作品である、という映画の出自から考えれば、ケイト・ブランシェットがリディア・ターそのものである、といっても差し支えないだろう。
実際にオーケストラを指揮するシーンがあるが、僕にはプロの指揮者にしか見えなかった。話し方、伝え方、指揮の表現、まったく違和感がないどころか、一流の人物が持つオーラのようなものがにじみ出ている。
彼女が体現している指揮者としての「力」にリアリティがあるからこそ、その「力」のもうひとつの側面である「権力」を彼女が使いこなす姿も自然に見えるのだろう。