時代を反映するアイコンの数々だけではない。女友達とのぶっちゃけ話の始まり方や、遊び疲れたときのぐだぐだ感。
たとえば、幼馴染の働いているお店でサービスをしてもらったときの本音トークたるや。あけすけな心のうちを語る彼女たちのテンションはこんな感じだ。
「(サービスしてくれた)気持ちは超ありがたいんだけどさ……なんかもうちょっとこうしてほしいよね」
「わかるー。でもこれサービスだから無下にもしづらいんだよな〜」
「こんなの絶対言っちゃいけないんだけどさぁ……言っていい?」
「どぞ!」
「サービスしてくれるんなら、これじゃなくて、別のがよかったよね」
「絶対言っちゃいけないけど、そうだね〜」
「これ、ちなみになんだけどさぁ……」
人の好意を受け取りつつも、さらには注文をつけるという身勝手ぶり。自分たちの姿を投影していると感じた人も多いのではないだろうか。
はたまた、家族とのあーだこーだのやりとりや思春期の距離感。職場での給湯室での会話や昼休みの過ごし方。
どれをとっても、「あ〜、あったー!」「わかる〜」とうなずいてしまうくらい、あまりにもリアルだ。
ふとした会話や人間関係のリアルなまでの描写と、「人生を何度もやり直す」ありえなさ。人生をやり直したといっても、劇的に良くなるわけではない。進路や就職先が変わったり、周りの人を少し幸せにしたりという、「ありえる」範囲のブラッシュアップ加減。その三者の絶妙さが今年33歳の私にはハマったのかもしれない。
他人からしたら、ごくごく些細な「ありえる」違い。でも本人にとって、それはものすごく大きな意味を持っていることがある。
アラサーやそれ以上にもなれば、誰しも一度は「こうじゃなかった人生」のことを考える。もっと違う生き方もあったんじゃないか?もっとマシな今もあったんじゃないか?
「あの進路を選んでいれば」
「あの人と別れていなければ」
「あのとき、ああ言っていれば」
大小様々な人生の岐路が頭に浮かんでは、今の人生を値踏みする。