【すずめの戸締まり】随分と、悼んでいないから。

「君の名は。」「天気の子」でも、新海は、キャラクターに祈らせている。彼らの祈りはまっすぐだ。「好きな人にもう一度会いたい」、たったそれだけの動機で、手を合わせて、強く強く祈る。相手が死んでいようと、人柱になっていようと関係ない。

批判もあるだろう。
「祈ったって、死んだ人は帰ってこない」と。

悲しいかな、そういう時代だ。

千羽鶴を折り、遠い国の平和を祈るだけで「何の意味があるの?」と冷笑されてしまう。祈りを、金銭価値に換算されるのだ。未来に向かう「思い」は、ストーリーマーケティングの中で程よく編まれるのに、過去にベクトルが向いた途端、それは胡散くさいものと見做される。

過去なんて、存在していないも同じ。

記憶に残すことを誰もが放棄すれば、「これからどうしていくのか」という点だけが注目されるようになってしまう。未来は大事だけど、その未来は、何が基礎となるのだろう。

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自然災害を食い止めていた「要石かなめいし」が取り除かれてしまったことにより、日本各地で災害リスクが高まってしまった世界。「すずめの戸締まり」で描かれているのは、2020年代の日本をそっくりメタファー化した世界だ。「要石かなめいし」という存在で分かりやすく具象化しているが、古くから守られてきた価値(価値観)が損なわれ続けてきたことにより、あらゆることがガバガバになっている。

「天気の子」で少年少女が地球の運命を決定づけたように、「すずめの戸締まり」でも、鈴芽と草太が全国を廻りながら自然災害の発生を食い止める。(相変わらず若者に重荷を背負わす新海の姿勢に、少しだけ辟易とした)

自然災害を引き起こすのは、地下に潜む巨大な「ミミズ」だ(村上春樹の短編小説『かえるくん、東京を救う』を彷彿とさせる)。「ミミズ」の出現を食い止めるべく、ドアを閉じ、念仏を唱えて鍵をかけるのが、草太(と鈴芽)に課せられた役割だ。

そこに、実はもうひとつ大切なステップがある。

扉はたいてい廃墟(人々によって忘れられた / 放置された場所)にあるのだが、鍵をかける前に、かつて暮らしていた人たちの声を聴くのだ。耳を澄ませると、生活の声が、何気ない会話が聴こえてくる。思いを馳せた上で「お返し申す」わけだが、そこに形式に留まらない本来の儀式のあり方を見出せる。

声を聴く。

簡単なことに思えるが、では、最近あなたが声を聴いたのはいつだろうか。思い当たるとして、では「本当に聴いたのか」を改めて問うてもらいたい。今年公開された映画「カモン カモン」でも、ホアキン・フェニックス演じるジョニーが、相手の声を聴こうと務めるシーンが繰り返し映し出される。

聴くことで、未来への足掛かりを作ることができる。

言うまでもないが、聴くことは、相手に思いを馳せることに繋がる。それが故人であるとしたら、悼むことにも繋がる。人だけでなく、新海は「もの」に対しても悼みを捧げようとする。そりゃそうだろう、この社会は、人だけで構成されているわけではない。(人間の「ご都合」のみに合わせた結果、地球の気候はとんでもないところに差し掛かっている)

そう考えると、あらゆる物事は、随分と悼まれていないことが分かる。悼まなければいけないわけだが、主体(主語)は、あくまで僕だ。このテキストで好き勝手放言を並べている僕だが、現世では、未来ばかりをめそめそと心配している。

「すずめの戸締まり」は、そんな僕(現世)へ強烈なカウンターパンチを喰らわせる作品だ。たいていそういったパンチが繰り出される作品というのは、痛快な感覚を催すけれど、そんなスッキリとした読後感は一切ない。鈴芽の「行ってきます」は、それなりに重い人生の帰結として放たれている。

……そんな前提があるけれど、鈴芽が放つ「行ってきます」は、どこまでも軽やかだ。僕たちを自由な旅へと誘ってくれるだろう。鈴芽と草太を惑わすダイジンのようなジャンプアップを、心の片隅で予期しながら、声を揃えて言おうじゃないか。「行ってきます」「行ってらっしゃい」の一言を。

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■すずめの戸締まり
監督:新海誠
脚本:新海誠
企画:川村元気
プロデュース:川村元気
キャラクターデザイン:田中将賀
作画監督:土屋堅一
美術監督:丹治匠
音楽:RADWIMPS、陣内一真
主題歌:RADWIMPS「すずめ feat.十明」
出演:原菜乃華、松村北斗、山根あん、深津絵里、染谷将太、伊藤沙莉、花瀬琴音、花澤香菜、神木隆之介、松本白鸚ほか
配給:東宝

(イラスト:Yuri Sung Illustration

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株式会社TOITOITOの代表です。編集&執筆が仕事。Webサイト「ふつうごと」も運営しています。