【流浪の月】大丈夫、幸せになれる。

被害者も、「つながり」を持てない

更紗は、誘拐事件によって名前が広く伝わったことにより「小児性愛者に巻き込まれた」というイメージが付き纏うことになる。どこにいっても「かわいそう」と言われ、哀れみの目で見られることになる。

恋人に暴力を振るわれるのも、「守ってあげるべき対象が、突然自分の言うことをきかなくなった」ということが理屈になって発生している。恋人に従順である限りにおいては良好な関係を築けるが、そうでなくなった途端、良好な関係を築けなくなる。別れを決意した更紗は、何度も「ごめん」と言うが、その本意は何だろうか。

おそらくは、立場の違う恋人と持てた数少ない共通言語のひとつが「ごめん」だったのだろう。「ごめん」とは謝罪である。一方が非を認め、許しを乞うという構図だ。非常に分かりやすい。

逆に言うと、それ以外でどれだけ言葉を尽くそうとも、すれ違うということだ。哀れみの対象であり続けた更紗にとって、立場の違う人たちと取れるコミュニケーションには限度がある。YES、NO、ありがとう、ごめんなさい……。それくらいでしか意図を伝えられない。本音で語り合えるような関係に至るまでは、相当な時間を要するだろう。

状況は違えど、文と同様、孤独を感じ続けていたのである。

原作と映画における、連帯の違い

李相日の作品の多くは、徹底的に「二人」の連帯が描かれている。

2010年に公開された映画「悪人」が分かりやすいだろう。

知り合いの女性を絞殺した祐一(演・妻夫木聡)が、光代(演・深津絵里)と逃避行を図る。意図せぬ殺人であったとしても、加害行為が許されるわけがない。しかし光代は、祐一の孤独を汲んで警察の手から彼を逃そうとする。社会的な幸せなど望む余地もないのだが、日の出を眺める「二人」は束の間の幸せを噛み締めていた。そこには社会のルールとは一線を画した連帯があった。

「流浪の月」でも、李相日は更紗と文の連帯を描く。「悪人」と違って、平穏無事に過ごす権利があるにも関わらず、「二人」は世間からは糾弾されている。しかも誰の助けも受けようとしない「二人」、この関係性において連帯が固く結ばれている。

だが、凪良ゆうが描いた連帯は「三人」によるものだった。映画ではわずかしか登場しない、更紗の同僚の娘・梨花。映画では共同生活が引き裂かれたままで終わったが、原作では「三人」の関係が継続している。

「二人」と「三人」。そこには大きな違いがある。「三人なら多数決ができる」といったことではない。「二人」の中で閉ざされた関係が、外に向けて広がりを持てる可能性があるということだ。過去の出来事によって、更紗と文は内向に留まっている。しかし梨花が加わることによって、社会との接続が期待できるのだ。

苦しみや悲しみが、当人の間だけで完結しないこと。分かち合える人が、他にもいるというのは心強いことだ。

根拠に乏しいかもしれない。しかし僕は自信を持って「二人」に言いたい。あなたたちは、絶対に幸せになれるよと。

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■流浪の月
監督:李相日
原作:凪良ゆう『流浪の月』
製作総指揮:宇野康秀
製作エグゼクティブ:依田巽
製作:森田篤
プロデューサー:朴木浩美
エグゼクティブプロデューサー:小竹里美、高橋尚子、堀尾星矢
ラインプロデューサー:山本礼二
脚本:李相日
撮影監督:ホン・ギョンピョ
美術:種田陽平、北川深幸
照明:中村裕樹
音響:白取貢
出演:広瀬すず、松坂桃李、横浜流星、多部未華子、三浦貴大、内田也哉子、柄本明ほか
配給:ギャガ

(イラスト:Yuri Sung Illustration

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