【流浪の月】大丈夫、幸せになれる。

osanai 流浪の月

15年前に「家内更紗ちゃん誘拐事件」として被害者、加害者とされた家内更紗と佐伯文。偶然の再会を遂げ、旧交を温めていたのだが、世間は残酷なまでにふたりの生活を切り裂いていく。
監督は「悪人」「怒り」の李相日。撮影監督は「ベイビー・ブローカー」「パラサイト 半地下の家族」で撮影を務めたホン・ギョンピョが手掛けている。主演は広瀬すず、松坂桃李。

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連帯の物語。

凪良ゆうの原作を読んで、僕が真っ先に感じたことだ。李相日が手掛けた映画「流浪の月」にも連帯を感じたけれど、その種類には明確な違いがある。

弱者は、「つながり」を持てない

野球選手の大谷翔平は「100年にひとりの逸材」と呼ばれる。彼の身体能力、野球センスを疑う者はいない。本人は孤独かもしれないが、多くの場合、賞賛の対象に挙がる。

一方で「100万人にひとりの難病」といわれたらどうだろう。大谷翔平と同じような「珍しさ」で語られるけれど、脳内を巡る感覚は別物になる。気の毒だという思いと共に、自分とは無関係だと切り離すこともあるだろう。

このように「珍しさ」とは、文脈によって全く異なる様相を呈するのだ。

松坂桃李が演じた佐伯文は、小学生女児を誘拐した加害者として罰せられた。世間からは「小児性愛者」というレッテルも貼られる。だが海外ではペドフィリアとチャイルド・マレスターという分け方がされているように、小児性愛を持つ人間が必ずしも性的犯罪を起こすとは限らない(むしろ起こさないことの方が多い)。小児性愛者と児童性虐待者を混同することによって、犯罪を犯さない小児性愛者は肩身の狭い思いをすることになる。

実際に、文が「小児性愛者」なのかは本作では明確に描かれていない。しかし仮に「小児性愛者」だったとしても、その事実自体が糾弾されるいわれはないはずで。先天的にせよ後天的にせよ、「小児性愛者」というマイノリティを背負ったことで「誰にも相談できない」状態になった事態を見逃してはならないことだ。

さらに、文は身体的にも病気を患っていた。身体の部位に関する悩みは、「コンプレックス」という言葉で矮小化されがちだが、その大きさは実に人それぞれである。友人はもちろん親に相談できない悩みもあり、実際に文は、早期治療が必要だった時期をはるかに過ぎてから身体異常の「特定」に至っている。

身体の部位に関する悩みがマイノリティであればあるほど、共感はされない。嘲笑の対象にもなることさえある。

「視力が落ちて困ってるんです」という身体的特徴は公言できるけれど、「男性器が極端に小さい」ことは公言できない。視力の低下は、同じような悩みを抱えている人たちと情報交換ができるけれど、男性器が未発達であることはカミングアウトもままならない。

「つながり」を持てないことの苦しみを、「流浪の月」はひしひしと伝える。ペラペラと感想を語れないという声もあがっているが、人間の深い部分にアクセスしている証であろう。

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S H A R E
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株式会社TOITOITOの代表です。編集&執筆が仕事。Webサイト「ふつうごと」も運営しています。