被差別部落出身であることを隠して小学校の教師を務める瀬川丑松。同じ被差別部落出身の思想家・猪子蓮太郎に傾倒していたことから、瀬川の出自への詮索が始まる。
1948年に木下恵介、1962年に市川崑が映画化した島崎藤村『破戒』、2022年に監督として手掛けるのは前田和男。脚本は加藤正人、木田紀生が務める。主演は間宮祥太朗。
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スクリーンに映し出される、差別を受ける人たちの姿に思わず目を逸らしたくなる。苦しい想いを抱いた。
島崎藤村の同名小説を原作としたこの映画。穢多を出自とする人々の苦しみが描かれている。
小説の名前を聞いたことはあったが、これまで読んだことはなく、映画がどのようなストーリーなのか気になりながら観た。
どうして人間は差別してしまうのか
最初のシーン。
穢多を出自とする主人公・瀬川が宿泊する信州の宿で「穢多が泊まっている!」と騒ぎが起こる。宿泊していた初老の男性は罵声を浴び、石を投げつけられながら追い出される。
一連のシーンには、社会的に立派とされる大人が平然と差別する点にショックを覚えた。令和に生きる自分と明治時代の人々にとっての社会規範は異なり、身分差別が色濃く存在していた時代。悪気はないのかもしれないが、どうして人間同士で差別が起こるのか。深く考えさせられた。
そもそも、差別とは何だろうか。
それは他者に優劣をつける言動や行動のことを指すのだろう。「破戒」で描かれるような身分から、人種、ジェンダー、容姿、職業まで様々なものに至る。
また、身の周りでも受験や就職、恋愛など多くのことにおいて選ばれたり、選ばれなかったりする。もちろん、こうした全ての物事を「差別だ!」と言って糾弾する気はないけれど、特定の価値観に基づいて人を選別する行為はグラデーションのように地続きにあるはずだ。