そして、男は仮面を求めた。
災いを生み出す傷を隠し、誇りに満ちた自分を回復するための仮面。
時を巻き戻し、失ったものを取り戻すための仮面。
しかし、精神科医がつくった精巧な仮面の威力は、傷を隠すだけにとどまらなかった。
もはや傷の有無など関係ない。
それは傷、あるいは傷ついた心の治療ではなく「実験」なのだ。
男と精神科医は、互いの欲望の一致を見出し、いともたやすく共犯者となった。
それをかぶれば別人になれる。
誰も知らない、この世のどこにもいない人物になれる。
さて、それは本当なのだろうか。
誰も自分の顔を知らなければ、他人になれるなんて、そんなおかしなことがあるだろうか。
たとえば目の見えない人の前で仮面を付け替えても、他人にはなれない。
それに、他人の顔をしてたって、私は私だ。他の誰でもない。
たとえ他の誰も自分を知らなくても、己は己を知っている。
自意識まで覆える仮面などないのだから。
つまり、「実験」などという大それた呼び方をしたところで、他人の顔をして他人のふりをする「ごっこ」遊びに過ぎないのだ。
はたして、お遊びは簡単に見破られる。
長年連れ添った妻は言うに及ばず、アパートの敷地で出会う度、執拗にヨーヨーをせがむ風変わりな少女は、視覚を超えた直感で人物を捉える。
少し気が大きくなって、普段より少し派手な柄の服を選ぶくらいはかわいいが、仮面をかぶれば別人なんだと、強引に犯罪者になろうとし、診察券ごときで身元がばれるのは、滑稽を超えて痛々しいくらいだ。
仮面をかぶって他人になったつもりでも、男の振る舞いには苛立ちが滲む。
妻を貶めるための仮面で、元来の卑屈さが隠せるはずもない。
人格は、素顔よりもっと内側にある。
