「部屋子に乗っ取られた」と陰口を叩かれる中で、喜久雄は半次郎の病室で厳しい稽古を受ける。現代では考えられない体罰を含め、観ている側が思わず身を引くほどの檄が飛ぶ稽古場は、終始緊迫した雰囲気であった。いざ舞台の本番を迎えた日、自分に化粧を施す喜久雄の手は激しく震える。そこに現れた俊介に対し、喜久雄は「怒らんで聞いてくれるか」と前置きをした上で、次の言葉を絞り出した。
「俺な、今、一番欲しいの、俊ぼんの血ぃやわ」
かつて、喜久雄と俊介が初の大舞台に立つ時、半次郎が俊介に言った。
「アンタは生まれたときから役者の子や。何があっても、ちゃんとアンタの血ぃが守ってくれる」
自分には歌舞伎の血が流れていない。自分には、いざという時に守ってくれるものがない。たった一人で立ち続ける喜久雄の孤独な心が、上記の一言に込められている。実の息子でありながら代役をもらえなかった俊介は、喜久雄の台詞に怒ることなく、静かにこう告げた。
「芸があるやないか」
その後、堂々と舞台に立つ喜久雄の姿に自分の現在地を思い知らされた俊介は、喜久雄と恋仲であった春江と共に数年にわたり出奔する。出奔に至る際、なぜ春江が俊介に同行したかについては、映画では多くは語られていない。
俊介が春江と出奔したことそのものは、喜久雄にとっては手痛い裏切りであろう。だが、それとて俊介が率先して春江をそそのかしたわけではない。むしろ、春江のほうが俊介の手を引き、母親のようにすべてを引き受ける覚悟で連れ出したように私には見えた。春江は、過去に喜久雄からのプロポーズを断っている。芸の道を極めるには自分が邪魔になると判断して身を引いた春江の心情を鑑みると、俊介と出奔したことさえも彼女なりの喜久雄への愛情だったように思えてならない。
のちに喜久雄は、藤駒なる芸者との間に娘をもうける。ある年の夏祭り、娘と共に神社を参拝した喜久雄は、娘にこう囁いた。
「お父ちゃん、今、神様と話してたんとちゃうねん。悪魔と取引してたんや」
「『歌舞伎を上手うならして下さい』て頼んだわ。『日本一の歌舞伎役者にして下さい』て。その代わり、他のもんはなんもいりませんから』て」
父親の言葉に娘が傷ついていることにさえ、喜久雄は気付かない。そして言葉通り、喜久雄は歌舞伎の世界でのし上がることだけを考え、ほかのすべてを踏み越えていく。俊介としのぎを削り合う過程よりも、喜久雄の中に存在する芸への執着のほうが、よほど狂気に満ちている。
喜久雄が芸の道に執着すればするほど、歌舞伎の世界は彼に背を向ける。思い余って卑劣な手段を用いた喜久雄は、スキャンダルも重なり、花井家を追い出される形となった。
