若きエリザベスは「スー」と名前を変え、自分をクビにしたプロデューサーが募集する番組出演のオーディションを受ける。プロデューサーはスーのことを、かつて自分が貶しめたエリザベスだと気づきもしない。肌も体型も若々しく変化した彼女の容姿を手放しで褒めたたえ、即決で番組の顔として起用する様は、実に滑稽だ。
その後、スーは爆発的な人気を得て、一躍スターとしての階段を駆け上がる。一見順風満帆にみえるが、スーがあるルールを破ったことで、母体に思いがけない変化が訪れた。エリザベスは「母体」として目覚めるたび、スーの身勝手さに憤る。そして、自暴自棄になり暴飲暴食を繰り返す。そんなエリザベスの行動に、スーも強い嫌悪感を示す。それぞれがサブスタンスの管理人に「彼女は勝手だ」と苦情の電話を入れるが、管理人は双方を以下の台詞であしらう。
「“彼女”なんていない。あなたはひとりだ。バランスを大事にすれば問題は起きない」
サブスタンスについての説明で、「自分からは逃れられない」というワードがある。エリザベスはスーで、スーはエリザベスで、外見が違うだけで元はひとりの人間で、それなのに年齢の差によって周囲の扱いは大きく異なる。
サブスタンスで、理想の自分を手に入れたはずだった。しかし、エリザベスの孤独は深まるばかり。誰もがスーを求めている。老いた自分に価値などない。そう思い知らされる出来事が起こるたび、エリザベスの心は蝕まれる。
バランスよりも各々が自分の感情を優先させたことで、事態の悪化はさらに加速する。最終的に母体と分身に起こる変化は、あまりにも残酷で悲しい。本作は「ホラー」の要素を持つエンタメ作品だが、私は恐怖よりも、悲しみをより深く感じた。物語終盤、スクリーンは血に塗れる。私にはその血が、慟哭と涙に見えた。無色透明の涙と違い、鮮血は証が残る。
「怪物だ!」と罵倒されるスーが、「私なのよ!」と泣き叫ぶシーンがある。中身は変わらないのに、外見だけで扱いが180度ひっくり返る。こういうことが、ずっと繰り返されてきた。ジェンダー問わず、国籍問わず、あちらでも、こちらでも。あの人は何点、あの容姿は合格、あのスタイルは素晴らしい、あの人は論外。好き勝手にジャッジを下す人々に囲まれて、つけられた点数に傷ついて、本当は痛くてたまらないのに「大したことない」ふりをして、私たちは生きている。
生物は誰もが年を取る。人間も、動物も、植物も、年を重ねるごとに変化を遂げ、周囲の状況も変わっていく。それは本来自然なことなのに、人間はなぜ、加齢を「忌むべきもの」と考えるようになったのだろう。
年を重ねることで増してゆく人間としての深みや味わいは、若さで代用できるものではない。もちろん、若さだって大事なパワーで魅力のひとつだ。優劣ではなく、魅力の違いとして捉えればいいものを、わざわざ「老害」や「BBA」などの有害なスラングを用いて対立を煽る社会の風潮は、悲しい歪みを引き起こす。誰もが避けては通れない「加齢」を揶揄して嘲笑う人たちは、自分がいつか老齢に差し掛かったとき、同じように己を笑うのだろうか。