作中、ひなみは何度も腕を広げ、空を見上げて深呼吸する。子どもの頃、父が教えてくれたように。
小学校の水泳大会の前日、緊張して眠れないひなみ。父のアドバイスは飛び込む前に深呼吸をすることだった。深呼吸をしたら早く泳げるようになるのか、勝てるのかと問うひなみに父は言う。
「早くはならない。でも楽しくなるよ」
深呼吸を一つしたからといって人生の何かが劇的に変わるわけではない。ただ深く呼吸をしたあと、自分の中の何かは少しだけ変わるかもしれない。目の前にあるこの世界に、自らの現実にどう向き合うか。
今年、私は転職をした。以前の仕事は好きだったし、辞めることに迷いもあった。だからこそずっと「転職」の二文字が頭の中をどっちつかずにふわふわと漂っていた。でもある日、すっと決意が固まる瞬間があった。その瞬間「転職『しようかな』『した方がいいのかな』」は「転職『する』」に決まった。自分が納得のいく形で転職をする。そう決めた。その前後で世界は1ミリも変わっていなかった。ただ、自分の中で目指す方向が固まっただけ。
その後の数ヶ月は正直苦しかった。何度も書類選考に落ち、やっとのことで最終面接まで進んでもうまく行かないことばかり。会社と自分の相性の問題で、自分だけに原因があるわけではないとわかっていても「NO」と言われ続けるのはなかなかにしんどい。でも納得のいく転職をすると決めたのは自分だ。
紆余曲折を経て無事転職が決まったときは飛び上がるくらいうれしかった。すぐ転職先で働き始めることもできた。だが、急いで働き始めるよりもやりたいことがあった。旅に出て、いろいろなところで、いろいろなものを見てみたかったのだ。
街のいたるところから温泉の湯けむりが立ちのぼる別府で見た、鈍色のくもり空。瀬戸内海に浮かぶ離島で船を待ちながら眺めた、雲ひとつない青空。ヒースロー空港から友人宅へ向かうUberの窓の外に広がっていた、ロンドンの曇天。ミュンヘンの吸い込まれるように真っ黒な夜空と北斗七星。バルセロナの陽気な青空と潮風。
転職すると決める前の自分に、1年以内にこんなにたくさんの空に出会えると言ってもきっと信じないだろう。その後、空に目を向けるのをまた忘れがちになってしまっていることも。
今一度、目の前の空を見上げてみようと思う。あるいは、記憶にある限り一番美しい空を思い出したい。
“息をはきだして少しこらえたら
いつか全ての気の力をすおう
青い空の中 雲が動いていく
私の体は再び目覚めていく”
(*冒頭・末尾のフレーズは映画主題歌「深呼吸の必要」(My Little Lover)歌詞からの引用)
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■深呼吸の必要
監督:篠原哲雄
脚本:長谷川康夫
撮影:柴主高秀
照明:長田達也
録音:白取貢
美術:都築雄二、浅野誠
編集:奥原好幸
音楽:小林武史
主題歌:MY LITTLE LOVER「深呼吸の必要」
参考文献:長田弘「深呼吸の必要」(長田弘詩集より)
出演:香里奈、谷原章介、成宮寛貴、金子さやか、長澤まさみ、久遠さやか、大森南朋、北村三郎、古田妙子ほか
配給:日本ヘラルド映画 / 松竹
公式サイト:https://www.shochiku.co.jp/cinema/database/04589/