【ぼくのお日さま】光と影が同居するひと冬の物語。喉に詰まった言葉のゆくえを私は想像する

私自身は、ジェンダーやセクシュアリティに関していえば圧倒的にマジョリティである。シスジェンダーで異性愛者。“多数派”というだけで、この世はとかく生きやすい。それは、“少数派”というだけで生きづらい現実を意味している。異性愛者がすべての異性に性的に惹かれるわけではないのと同じように、同性愛者はすべての同性に性的愛情を抱くわけではない。そんな当たり前のことさえ理解されず、マイノリティというだけで常に説明を求められる。ときには、説明する余地さえ与えてもらえない。

だいじなことを言おうとすると
こ こ こ ことばが の の のどにつまる

(ハンバート ハンバート「ぼくのお日さま」(作詞:佐藤良成)より引用)

本作のエンディングで流れる、ハンバート ハンバートの楽曲「ぼくのお日さま」の一節である。監督・撮影・脚本・編集のすべてを担う奥山大史氏は、この曲と出会ったことにより本作の制作に至ったという。

大事なことを言おうとすると、言葉が喉に詰まる。タクヤを悩ませる吃音の症状を彷彿とさせるフレーズだが、大事なことほどうまく言葉にできないケースは少なくない。怒り、悲しみ、羞恥、葛藤。これらの感情は時間を経るごとに雄弁に語れるようになるものだが、衝撃を受けた瞬間は一言も発せられず押し黙ってしまう人も多い。喉に詰まった言葉は、やがてじくじくと膿んでいく。その不快感が、春の雪解けのように溶けて押し流されてくれたなら。そう願ってやまない痛みが、私にもある。

映画のラストシーンにおける季節は、春。さくらとタクヤが共に滑った天然のスケートリンクは湖に姿を戻し、道路脇にうず高く積もる雪は音もなく空へと帰った。3人が過ごしたひと冬の時間は、かけがえのないものであったろう。ただ、「青春の痛み」として安易に片付けられない影が、本作には存在する。光と影は対なのだと、そう知っていながらも、あまりに美しい光を見せられたあとの深い影に打ちのめされた。

タクヤは、思いを口にできただろうか。荒川は、「なに言ってんの?」の続きを誰かに話せただろうか。さくらは、己の発した言葉と態度にどう向き合っていくのだろうか。エンディングの続きを、勝手ながら想像する。その光景が、タイトルにもある通り「お日さま」の光のように温かなものであればいい。言葉が喉に詰まる人ばかりが重いものを抱えなくて済むような、そんな光がこの世界に満ちることを、私は求めている。

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■ぼくのお日さま
監督:奥山大史
脚本:奥山大史
撮影:奥山大史
編集:奥山大史
照明:西ヶ谷弘樹
録音:柳田耕佑
美術:安宅紀史
衣裳:纐纈春樹
ヘアメイク:寺沢ルミ、杉山裕美子
助監督:久保朝洋
スケート監修:森望
音楽: 佐藤良成
主題歌:ハンバート ハンバート「ぼくのお日さま」
出演:越山敬達、中西希亜良、池松壮亮、若葉竜也、山田真歩、潤浩ほか
配給:東京テアトル
公式サイト:https://bokunoohisama.com/

(イラスト:水彩作家yukko

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S H A R E
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エッセイスト/ライター。PHPスペシャルにエッセイを寄稿。書評『ダ・ヴィンチWeb』|映画コラム『osanai』|連載『withnews』『BadCats Weekly』など多数|他、インタビュー記事・小説を執筆。書くことは呼吸をすること。海と珈琲と二人の息子を愛しています。