高橋たちは社長の命令のもと、再度水挽町を訪れ、巧に「企業のアドバイザーになってほしい」と打診をする。だが、その折に巧の娘・花が行方不明となる。巧は花の学童のお迎えを忘れがちで、花は父親を待たず山林を歩いて帰るのが常であった。結果、この日ついに花は行方不明となり、大人たちは手分けをして花を探し歩く。待ち受けるラストの驚きは、予想だにしないものだった。だが、物語序盤から抱えていた違和感が、私の中で妙に腑に落ちた。
巧は、高橋と黛に「手負いの鹿は人を襲うことがある」と教えていた。野生動物に襲われる可能性に限らず、遭難、崖崩れ、川への転落など、山道は大人でさえも危険に満ちている。ありとあらゆる危険が潜む山奥での暮らしにおいて、小学生に山道を一人で歩かせる描写は、私にとって違和感しかなかった。
私の祖父母の家は、本作に登場する山間部と環境が酷似している。山深い土地、透き通る湧水、小川のせせらぎ、頻回に出没する野生動物。小・中学生の頃、裏庭に行くだけでも一人歩きを許された試しがない。子連れ、もしくは手負いの野生動物がいかに危険か、耳にタコができるほど聞かされて育った。だからこそ抱いた違和感は、ラストシーンの巧の選択と矛盾しない。
巧の家には、母親を含めた家族写真が飾られていた。しかし、作中に母親は登場しない。母親の不在、父親を待たず一人で山道に入る花、それを咎めない巧。これらの点が線となり、前述した違和感とラストシーンが私の中でつながった。
花には、何を犠牲にしても会いたい人がいたのではないか。巧は娘の思いに気づいていて、その日がくるのを密かに待っていたのではないか。直接的な行動に移すのではなく、「自然界に身を委ねる」方法で自らの命を試していたのではないか。そんな気がしてならないのは、私にも似たような経験があるからだ。