計画の全容を知った住民は、各々の言葉で懸念点を指摘する。だが、企業側は「持ち帰って検討します」を繰り返すばかり。「検討します」という言葉は、実に便利だ。仮に相手の要望に添えずとも、「検討した」事実さえあれば「十分にコミュニケーションを取った」と言い訳が立つ。その理を知っている住民は憤りを隠さず、企業側に詰め寄った。そんな二者の間に、巧は諭すような口調で割って入る。
「開拓も現状保護も、どちらも必要。大事なのはバランスだ」と説いた上で、巧は「やり過ぎたら、バランスが崩れる」と言い切った。企業側の人間として、住民を言いくるめる腹づもりでいた高橋と黛(マユズミ)は、巧の実直な言葉に居住いを正し、住民の声に耳を傾ける。
説明会の場面で、この一帯の区長を務める駿河が語った台詞が印象的であった。
「まず水っていうのは、高いところから低いところに流れる。上流でやったことは、必ず下に影響します」
川の水の話に限らず、すべての道理に通ずる言葉であろう。一般企業においても、上流が決めたことに部下たちは従わざるを得ない。下剋上を起こすケースはほんの一握りで、反乱のほとんどが事を起こしきる前に潰される。上流に自らを置く人間ほど、周囲に与える影響について真摯に考える姿勢を持つべきだ。そう訴える駿河の言葉は、静かな説得力に満ちていた。
とはいえ、本作は「地元住民」と「企業側」の二項対立構造の話ではない。そもそも、それだとタイトルと矛盾する。「悪は存在しない」前提で、目の前で進んでいく物語に目を凝らす。それはある種、「誰も悪と断定できない」制限を設けられているようで、若干の窮屈さを覚えた。
“どっちが悪者か、どっちが可哀想かということが、編集によって簡単につくれてしまうんです。”
本作で濱口監督とともに編集を担当した、山崎梓さんの言葉である。本作のパンフレットに掲載されているこちらの言葉を読んだ際、映画鑑賞時に感じた“拮抗したバランス”を想起した。
企業側が絶対悪として描かれていたなら、ストーリーはもっとわかりやすかっただろう。だが、本作は真逆をいく。尚且つ、存在しないのは「悪」だけではない。本作には「善」も存在しない。揺るがない自然の中で、人間だけがそれぞれの思惑に従って揺れ動く。描かれる揺れ幅は、善と悪の二極に振り切れるような単純なものではない。