【デューン 砂の惑星PART2】シャラメ演じる“孤独なヒーロー”

未来視の夢にうなされ不安を覚え、泣きながらチャニに「命ある限り君を愛する」と告げるポールは、あまりに不憫だ。自分で選択したわけじゃない、“ただそう生まれついただけ”の運命に翻弄される人生は、これまでシャラメが演じてきた役柄に通ずる。孤高の存在といえば聞こえはいいが、つまるところそれは究極の孤独でもある。それこそ「君僕」で演じた男性に恋をするエリオや、「ボーンズ・アンド・オール」で演じた“人喰い”のリーのように。エリオとリーは圧倒的マイノリティであり、今作のポールは救世主=ヒーローだ。ポールは“世界にただひとりの特別な存在”で、孤独を抱えているという意味においてエリオやリーとよく似ている。いや、もしかしたら2人以上にポールは孤独なのかもしれない。

エリオやリーはマイノリティといえど、“同じ属性を持つ仲間”は存在する。言うまでもなく仲間を見つける作業は苦難に満ちているし、彼らの孤独感を矮小化ないし軽視するつもりは毛頭ない。まずエリオの孤独から紐解いていこう。エリオの性的指向について「君僕」内では明言こそされていないが、おそらくゲイ・セクシュアルかバイ・セクシュアル、もしくはパン・セクシュアルであると推測できる。彼と似たセクシュアリティの人間は、この世界に生きている。リーの場合も同様だ。「ボーンズ・アンド・オール」の世界の中で、彼以外にも“人喰い”は居る。そして“人喰い”たちは、匂いで互いが仲間であることを認識できる。

しかしポールには、そもそも“仲間”がいない。リサーン・アル=ガイブも、クウィサッツ・ハデラックも、この世界においてポールのみしか存在しない。よってポールはその重圧や苦悩を分かつ相手を持たない。文字通りひとりっきりで、これらを背負うほかないのだ。

たったひとりで悩み抜いたポールが導き出した答えは、母ジェシカの思惑通りハルコンネン&皇帝との対決だった。皇女イルーランを賭けた決闘を皇帝に申し込み、その代理としてハルコンネンの次期男爵であり冷酷無情なフェイド=ラウサが名乗りを上げる。クライマックス、一対一の鬼気迫る戦闘シーンでは生唾を飲み込んだ。

おそらく多くの人が思っただろうが、この決戦はパレスチナ・イスラエル間の戦争を想起させる。またパレスチナ側のメタファーであるフレメンの救世主が“現地人ではない白人男性”のポールであることにも、苦い気持ちが込み上げた。それが嫌悪感に至らないのは、やはりポールの人柄ゆえだろう。救世主としての生き方に迷い続ける様子が、観客の溜飲を下げさせる。

もうひとつ、チャニの存在も大きい。

チャニはいわばフェミニストだ。預言を妄信せず、人生をだれかに委ねたりもしない。そしてなによりチャニが愛したのは、リサーン・アル=ガイブとしてのポールではない。ひとりの、ごく普通の、平凡な少年ポールを愛したのだ。だから預言者として覚醒し運命を受け入れていくポールに戸惑うし、最後に彼が下した決断にも絶望の色を隠せない。このチャニの現代的な思想と冷静な眼差しこそが、ぼくたちを物語に繋ぎ止めてくれる。

もっといえば家父長制を前提とした物語そのものに問題はある(原作の小説は60年前に書かれたものだし)。大領家の家長と皇帝及びその後継者は“男性”であることが条件になっている点、“男性”は複数人の妻を娶ることができる点、“男性”の決闘の戦利品として“女性”が献上される点など。それでも監督のドゥニ・ヴィルヌーヴができうる限り悪しき思想を否定する描き方をしてくれていたし、フレメンは「男も女も、性別は関係ない」という文化を持っているという設定を加えてくれていたので、苦い場面も含めて楽しめた。

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S H A R E
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ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。