怪物に飲み込まれる少年の心「CLOSE/クロース」
主人公のレオとレミは、四六時中一緒にすごす大の親友だ。中学校に入学してすぐ、ぴったりと寄り添っている様子を同級生にからかわれてしまう。その後もいじられることに耐えられず、レオは徐々にレミを避けるようになっていく。そんなある日、レミは自殺してしまい、遺されたレオは苦悩する。
レオが眠れないレミに「想像してみて」と話した内容が、まさに本作の核心部分だった。
「お前はアヒルの赤ちゃんで卵から出たばかり。目を開けて世界を見る。仲間はみんな黄色。お前も黄色。でも仲間よりずっときれいだ。お前は特別なんだ。
ある日、お前は仲間から離れ、ヘビと出会う。初めて見るから、それが何かわからない。“へんな奴”って思う。でも好きになる。お前と同じで特別な色だから」
レオは、心細そうにするレミを勇気づけたかったんじゃないだろうか。君は特別な存在で、1人じゃないと。
レオのレミへの思いは、恋が何なのかを理解する前に知った、特別な感情だ。その思いを表に出せば、笑われてしまう。恥ずかしいことなのだと思ってしまったレオは、偏見という名の“怪物”に飲みこまれてしまったのだ。
“怪物”というキーワードは、映画「蟻の王」にも登場した。1960年代イタリアで起きたブライバンディ事件を元にしたヒューマンドラマだ。
劇作家で蟻の生態学者であるアルド・ブライバンディが、教え子のエットレと恋に落ちる。そのせいで、エットレは家族によって矯正施設で治療と称する電気ショックを受けさせられ、アルドは教唆罪で裁判にかけられる。
裁判の中で、アルドは「殉教者にはならない。怪物にも」と口にする。この言葉は、同性愛者を断罪しようとする裁判官にだけ向けて言っているのではない。
同性愛者のことを怪物のように思っている観衆に向けて「私は、あなたたちが思うようなおぞましい存在ではない」という強い意思表示だったのだ。
同性愛を禁じる史実に基づいた映画だと「シチリア・サマー」や「大いなる自由」などもこの下半期に公開された。歴史は変えられないが、これらの作品はそこで描かれる“怪物”について、わたしたちに考えるきっかけを与え、正面から問いを投げかけてくる。
わたしたちは、自分とは違う、自分が知らない考えを持つ他者に、どれくらい想像力をもって接することができるだろうかと。そこに“怪物”はほんとうにいないのかと。