【キリング・オブ・ケネス・チェンバレン】無知で無力な世界と僕と

結局のところ、権力と暴力に境目はないのだ。権力は大義のある暴力にすぎない。僕らはそのことに無自覚だ。気づいても目をそらしてしまう。権力とは相対するものではなく、迎合するものだと受け入れることを選ぶ。それが、権力に加担することだと知りながら。

人種差別は、ある社会構造が生み出す「力」によって引き起こされる。その「力」はとらえどころがなく、明文化もされていないが、確かに存在している。その「力」は人に働きかけ、特定の方向に向かわせるという権力に近い性質を持っている。

「力」に迎合すれば、事件は起きない。何か起こるかもしれないがそれは自分ではないと思いながら、素直にドアを開ければいい。それは「力」に加担する行為であり、人種差別を肯定することに他ならない。だから、僕たちは「力」に相対し、ドアを開けずに拒否しなくてはいけない。差別をなくすには戦いが必要だ。。理解や共感なんて何の役に立たない。戦わなければいけないのだ

頭ではわかる。

でも、そうやって戦ったケネスは警官に殺された。その事実の前に、僕は途方に暮れてしまう。

警官としての僕たち

ケネスと警官がドア一枚を挟んで攻防を繰り広げる中で、そのやりとりが臨界点に近づかないように、さまざまな人が働きかけていた。

ケネスが誤作動させた医療用通報装置で連絡を受けた窓口担当者は、ケネスの感情を受け止め、彼の代わりに警官と交渉しようとした(しかし、その声は届かなかった)。

訪問した警官のうち元中学校教師の新米警官は、精神疾患を抱えるケネスが怯えるような高圧的な態度をとる上司を止めようとした(しかし、上司から「口出しするな」と言われてしまった)。

ケネスの家族は心配して彼に電話をかけた。ケネスの姪は心配して、実際に様子を見に来た(しかし、ドアの前にいる警官に「近づくな」と言われてしまった)。

近隣住民は911に電話をかけ、ドアを破ろうとする警官以外の警官を呼ぼうとした(しかし、その前にケネスは射殺されてしまった)。

警官が振りかざす権力を止めようとした人たちの試みが、何か一つでもうまくいっていれば、結果はまた違ったのかもしれない。しかし、そうはならなかった。

大義を持ち、勢いづいた権力は、その行使を止めるものを邪魔者として扱う。大義のわからない、事の重大さが認識できていない「弱者」として。そして、対等な関係性は崩れてしまう。対等でない相手の声は聴く必要がない。主張はないものにされてしまう。

差別されていたのは、ケネスだけではない。彼を助けようとした人もまた差別の対象となったのだ。

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S H A R E
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1984年生まれ。兼業主夫。小学校と保育園に行かない2人の息子と暮らしながら、個人事業主として「法人向け業務支援」と「個人向け生活支援」という2つの事業をやってます。誰か仕事をください!