2014年7月、ニューヨーク市警察の警官によって首を絞められ、アフリカ系アメリカ人のエリック・ガーナーが死亡した。複数の警官に拘束されたガーナーが意識を失う前に11回も「息ができない(I can’t breathe.)」と発していたことが当時の映像に記録されている。
2020年5月、ミネアポリス警察の複数の警官がアフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイドを地面に押さえつけて拘束。警官はフロイドの首の上に膝をついて8分46秒間圧迫し、死亡させた。この事件を記録した映像の中で、最低でも16回「息ができない(I can’t breathe.)」と繰り返し発していた(この事件がBlack Lives Matter(BLM)という大きなうねりを生み出し、アメリカ全体で多くのデモと暴動を起こすことになった)。
「息ができない(I can’t breathe.)」は彼だけの言葉ではない。
アフリカ系アメリカ人コミュニティの積年の苦しみから、怒りから、悲しみから、絞り出された言葉だ。彼・彼女らに息ができなくさせている社会や構造が変わらないことを告発するための言葉だ。その言葉をケネスの死から10年以上経った今も脚本に書かなければいけなかったのだ。声を上げても無視される現実。声が届いても変わらない現実。
僕のような部外者がアフリカ系アメリカ人の人たちの現実をわかったつもりになって、代弁するようなことはしたくない。でも、声を上げている人がいることは知らなくてはいけない。何かできることはないか、考えたい。息をできなくさせている当事者の一人として。
権力とは大義のある暴力にすぎない
例えば、あなたの家に警察官が訪れたとする。そこで「状況確認のために、家の中を見させてほしい。家のドアを開けてくれないか?何もなければ、5分で終わる」と言われたとする。
あなたならどうするだろうか?
僕は「わかりました。いいですよ」と素直にドアを開けるだろう。そして、2分で確認が終わり、僕も警察官もそれぞれの日常に戻るだろう。事件は起こらない。