【高速道路家族】「速さ」のなかで「休む」こと

物語の転換点であるヨンソンの登場によって、家族に社会という客観的な視点が向けられる。

ただ、社会の目が向けられた時、福祉の手が差し伸べられるかと言えばそうではない。警察の取り調べを受けた後、ジウを除く家族3人は釈放され途方に暮れるのだ。

ヨンソンと出会ってから、すなわちギウと離れてから、家族3人は着実に社会に復帰していった。しかし、それはたまたまヨンソンの善意が差し伸べられたために社会への復帰をいち早く始められたに過ぎない。決して社会が手を差し伸べたのではない。ヨンソンの善意にはこの家族が高速道路で暮らし続けなければいけなかった理由が、社会の厳しさが、重たくのしかかっている。善意でしかこの人たちを救うことできない、という現実が。

そして、両親は社会に対して、強い不信感と劣等感を抱いていることがしばしば示唆される。

「勉強したい」「学校に行きたい」という娘に対し「やってみたけどつまらなかった」と答え、取り調べの際に子供たち学校に通わせていない理由を問われると、「学校に行くと、競争させられ惨めな思いをするから子供たちを守っている」と答える。子供たちに経済的、文化的格差を実感させないようにしたことで、かえって格差を拡大させてしまっている。昨今、問題点が指摘されている新自由主義の弊害ともみてとれる。どこからやり直せば良いのかがわからないほど入り組んでおり、この問題の複雑さが端的に示されているシーンだ。

ギウらは、新自由主義の「速さ」に乗り切れず、立ち止まっている状態だ。それはまさに、目的地に向かって効率よく高速で移動する高速道路のサービスエリアに止まっている状態である。

ギウらが「速さ」に乗れるようになったら、問題は解決するのだろうか。残念ながら違う。個人としての問題は解決するが、社会は、高速道路をどうしても走れない人をも包摂していかなければならないのだ。ギウが指名手配されている事実が話をややこしくしてしまうけれど、彼らを包摂しきれなかった社会にも問題はある。だから、両親が抱いた劣等感は社会の問題だ。

人間が作る計画というのは内と外を切り分ける作業でもあるが、この家族は明らかに社会の外部へと追いやられてしまっている。もちろん、外部に追いやられた人を一対一対応で内に取り込んでいくような、内側からじわじわと外に向かう試みは必要だろう。一方で、もっと根本を問わねばならないとも思う。なぜ、現在の社会ではこのような人々を外部に追いやってしまうことになるのか。それを問うことから始めなけれなならない。事後的に溢れた人を組み込むのではなく、なぜ溢れてしまうのかを問う。それはつまり、高速道路の仕組み自体を問い直すということなのだが、そこからやり直さなければいけないのだと痛感した。

また、両親の劣等感の問題は、社会の問題だけでは片付けられない個人の問題でもある。

どれだけ社会に居場所があろうと、全く他者と比較することはないという人は多くないだろう。社会が変われば比較もしなくなるかもしれないが、比較は潜在的にしてしまうものだと思う。

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S H A R E
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生活の中で感じたことや考えたことを残しておくのが好きな大学生。その過程を「あの日の交差点」というPodcastやWebサイトにアーカイブしています。