本作は、R15に指定されているだけあって濡れ場が多い。だが、主演を務める鈴木亮平・宮沢氷魚は、セックス以上に、さりげない視線や仕草を通して、互いへの愛を表現した。片思いをするときの眼差し、想いが通じた日の喜び、会いたい人に会えない焦燥。それら全ての振る舞いが自然で、かつて自分も経験した恋の面影に触れ、どこか懐かしい気持ちを覚えた。
恋は、きれいなだけではない。人が人を想うとき、そこには付随的にエゴもついてくる。想いを伝える方法を間違えれば、愛は容易くエゴへとすり替わる。表裏一体のそれを、誰がどう判断するかは自由だ。だが、受け取った本人が「愛だ」と感じているものを、他者が「エゴだ」と断じる権利はない。外側から見ただけでは、わからないこともある。
わからないものを「怖い」と思う感覚は、生き物の本能だ。だが、人間には知性がある。私たちには、「学ぶ」力が備わっている。
わからないなら学べばいい。知らないなら知ろうとすればいい。それを怠り、自分の物差しだけで他者の存在や愛のカタチをジャッジする権利など、誰にもない。
浩輔と龍太は、「家族」だった。
ふたりの愛のカタチを形容する上で、これ以上適した言葉を、私はほかに知らない。愛する人の母親を、自らの母親のように愛する。浩輔が選んだのは、そういう道だ。それが他人から見て「エゴ」であろうとも、浩輔にとっては「愛」で、龍太も龍太の母も、そんな浩輔をまっすぐに愛した。
愛する人と一緒にいたい。愛する人を支えたい。愛する人の家族を大切にしたい。そういう想いの先にあるのが「家族」だと私は思う。それなのに、どうして浩輔と龍太は、太陽の下で手をつないで歩けないのだろう。
「手をつなぎたければ、誰に何を言われても気にせずそうすればいい」と言う人もいる。でも、それを言う人は、自らの特権に気付いていない。
「何を言われても気にするな」──これは、「言われることがない側」だから言える台詞なのだ。
どんな事象においても、「共感」は誰にも強制できない。心は、その人だけのものだ。何を嫌い、何を好もうが自由だ。だが、「思う」のと「口にする」のは違う。
「思想の自由」は許されている。だが、「差別する自由」は許されていない。
そんなもの、許されてたまるか。