しかし癒やされるということは、忘れてしまうことでもある。あんなにも愛していたひとたち、せめて自分の中だけでもそのままのかたちで冷凍保存しておきたいのに、時が経つごとに、だれかの優しさに触れるたびに、記憶は風化していく。
「こんなに辛いのに、輪郭がぼやけてくんじゃ。ちょっとずつ、ちょっとずつ忘れていくのが怖いんよ」
雷雨の中、フラッシュバックに襲われた憲二は慟哭する。息子のコウタが自分の帰りを待つ合図としてあげていた黄色い風船だって、あのころと同じようにきちんと毎日あげているのに。強く願っても、褪せていってしまう。
自らの恐怖の根源を突きつけられた憲二は、再びうずくまる。その腕を引っ張り上げたのは、凛子だった。かつてその母であるさわがしてくれたのと同じように。
凛子は言う、憲二の言葉で勇気をもらえたのだと。いつか母に会えたときに、恥ずかしくない生き方をしようと思えたと。母はきっと、待っているから。
だから、いつかでいい。今すぐでなくていい。いつかちゃんと、周囲のひとに、憲二を心から慮ってくれるひとたちに向き合ってほしい。
「きっと、その方が喜ぶと思います。亡くなったご家族も……」
死んだひとの気持ちなんて、本当はわからない。もう二度と直接、その口から想いを聴くことはできない。だから遺されたものは、せめて想像するのだ。自分がこんなことを言ったら、ああいうことをしたら、あのひとはどう思うだろうか。怒るだろうか、悲しむだろうか、喜ぶだろうか、呆れるだろうか。
酒を酌み交わしながら故人の思い出話をし、湯船で妄想をめぐらせる。“死者を弔う”とは、その繰り返しなのかもしれない。ひとり哀しみに耽るだけでは立ち上がれないから、ときどきはだれかと共に。そしてそれは、生きている人間同士でしか成し得ない。
二度と会えないことだって、人生の中じゃ起こりうる。それを知っている憲二は、病状の悪化した繁三と共に東京へ帰る凛子へ向けて、ふたつの黄色い風船を飛ばす。いつでも帰ってきて、待っているよ。そう願いを込めて。
そして妻と子のために毎日あげ続けた風船の紐を、物干し竿からほどくのだ。もういいよ、いってらっしゃい。縛り付けてごめんね。そんな気持ちを乗せて空へ吸い込まれていく風船を、憲二は見つめ続ける。
いつかぼくも、黄色い宝石を──それをうっとりと眺めるはんめの面ざしを、手放せるだろうか。
その指輪は、はるべ──ぼくの祖父から贈られたものらしい。はんめが店先で一目惚れをしたのを見て、はるべが「買うたらええやん」とあっさり言い放ったのだと、何度も何度も繰り返し惚気られた。愛情のこもったあの指輪に、縋りたい。癒えぬ哀しみの慰めに、それを眺めたい。
でも、いつの日かそのこだわりも消えたらいい。きっとあの指輪は、はんめがわざと持ってっちゃったんだ。「あんたにあげるって言ってたの、忘れてたわ」と舌を出すはんめの顔が(はんめはやらかしたときにまじで舌をぺろりと出すひとだった)脳裏に浮かぶ。
そしてその輪郭は、だいぶぼやけてきてしまった。それでいい。いつか会ったときに、もっとめちゃくちゃ高いやつをねだってやるから。
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■とべない風船
監督:宮川博至
脚本:宮川博至
撮影:亀井義紀
美術監督:部谷京子
録音:古谷正志
音楽:古屋沙樹
音楽プロデューサー:菊地智敦
出演:東出昌大、三浦透子、小林薫、浅田美代子、原日出子、堀部圭亮、笠原秀幸、有香ほか
配給:マジックアワー
(イラスト:Yuri Sung Illustration)