【とべない風船】愛するひとを喪う痛みと、薄らいでいく記憶について

豪雨は、日常と地続きの災害だ。

だからこそ憲二も、あの日「お父さんが心配だから」と言って様子を見に行こうとする妻と子どもを、引き留めずに送り出してしまったのかもしれない。雷は鳴っている。雨風は強い。しかしそれが人命に危機をもたらすものだと、だれが即座に想像し得よう。

ほんの数十分前まで笑い合っていた、だれよりも愛しいふたり。それがつめたい土砂の中に埋もれているのを友人が見つけたとき、憲二は「触るな!」と叫んだ。その表情から、きっと即座に察してしまったのだろう。

それから憲二は、島の住人に対して心を閉ざすようになった。というよりもたぶん、どうしていいかわからなくなってしまった。前触れなく、突然、愛するひとたちが目の前から消える。触れることも声を聴くことも、叶わなくなる。天災は残酷なほど唐突に、ひとの命をこの世から締め出す。だから憲二は、ずっとずっと戸惑い続けていた。つめたい真冬の海に放り出されたみたいに。あのとき怪我してうまく動かなくなった足と同じように、心もまたうまく機能しなくなってしまったんじゃないか。

そんなある日、ひとりの女性が島を訪ねてくる。憲二一家と親交の深かった繁三・さわ夫妻の娘、凛子だ。

凛子もまた、心に空いた穴の前で立ちすくんでいた。父に憧れ教師になったものの挫折したこと、そして母であるさわの死。車がなければ生活さえままならない、病院もない。そんな辺鄙な島に移住したからこそ、母の病気は進行してしまったのではないか。凛子はうっすらとした恨みを父に抱いていて、ふたりのあいだにはどこかぎこちない空気が横たわっている。

最初こそ凛子に素っ気ない態度を取っていた憲二だが、会話を重ねるうちにぎこちなさは減っていく。喪ったひとの知人と、喪ったひとと親密だった人間の血縁者。不思議な結びつきは、穏やかに互いを癒す。母の話を聴きたいと凛子に請われた憲二は、茫然自失としている自分のもとへさわが訪ねてきたエピソードを伝える。

「自分は長くない。死んであっちに行ったらわしの家族に待っとけ言うとくって。その代わり、俺に生きろって! ちゃんと生き続けろって。じゃなきゃ先に生まれ変われって言うぞって……」
「どんな脅しよ」と笑う憲二の目は、わずかに潤んでいた。

記憶の中の母らしい力強い励ましに、凛子も微笑む。そんな凛子にさわの面影を見つける憲二もまた、硬化していた心がほぐれていく。

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S H A R E
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ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。