【わたしは最悪。】わからない、という贅沢

わたしは最悪 osanai

成績優秀で、何事もそつなくこなすことができる。だが人生の岐路に立つたびに「自分は何者にもなれていない」と葛藤する主人公・ユリヤ。ときに激しく恋をして、ときに痛い別れを経験する。そんな彼女の20代後半から30代前半までを描いた物語。
監督は「母の残像」「テルマ」のヨアキム・トリアー。主人公・ユリヤを演じたのはレナーテ・レインスヴェで、本作が映画初主演となる。

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焦らず、発酵させてみる

ここ1~2年のことだろうか。「わからない」ということが、とても贅沢な楽しみのように思うことがある。

これは、知らなかったことを理解する喜びや、成長を実感する喜びの話ではない。「わからない」という状況それ自体が楽しい、という話だ。目の前にある「わからない」ことが、もしわかるようになったならば、見えている世界が変わるかもしれない。自分自身も何か変わるかもしれない。そう期待しながら、ああでもないこうでもない、とのんびりじっくり考えたり動いたりしている時間が好きなのだ。ワクワクする。

もちろん、すぐに「わかる」状態にしなければならないこともたくさんあるし、ググればすぐに解決することも山ほどある。というか、そういうことばかりで、ちょっと疲れる。

だからこそ、急ぎではない「わからない」を見つけたら、自分の中でこっそり寝かせて発酵させる。すこしずつわかっていく過程を楽しむ。一見ネガティブに捉えられがちな「わからない」という状態には、実は、そういう楽しみも内包されているのではないだろうか。

今回鑑賞した「わたしは最悪。」も、私にとって、そういう作品だった。

堀さんからお話をいただき、さっそく予告編をチェックしてみた。本作は、30歳を迎えたユリヤが、恋や仕事、家族について悩みながらも、自分らしい人生を歩もうと奔走するストーリーだ。自分と同じ年ごろの女の子が主人公。しかも、なんとも素敵な映像と音楽。わからないなんてことは絶対ないし、共感しまくること間違いなしの作品だと、楽しみにG列3番に座った。

しかし、エンドロールが流れて最初に頭に浮かんだのは「困ったな」という感想だった。予想外に作品に入り込めなかったのだ。大きなテーマとしては理解できるし、期待していた映像や音楽はどのシーンを切り取っても想像以上に素敵だった。

しかし、私はユリヤの選択や行動にイマイチ共感できなかった。つまり、わからなかったのだ。何を書こうか、途方に暮れた。

「わからない」と感じた時、すぐにはポジティブな気持ちになれないことが多い。今すぐわかりたいと思って、困ったり、苦しんだり、悶々としているうちに、やがて諦めのような感情が芽生え始める。そして、やや開き直って「わからない」がちょっと楽しくなってくるのだ。

今回もそう。言語化できない何かと向き合い、ぐるぐると考えているうちに、だんだんと楽しくなってきた。

彼女の「最悪」に、ずっと憧れていた

私が、作品に対して直感的に没入できなかった理由は、おそらく2つ。

1つは、ユリヤと私のキャラクターが、あまりにもかけ離れすぎていた、ということ。せっかく入った医学部を辞めたり、大学で教授と恋に落ちたり、呼ばれていないパーティに紛れ込んだり。彼女の選択は、いつも衝動的で大胆だ。

一方、私はこれまでの人生において、学生生活も、仕事も、恋も、リスクの低い無難な選択ばかりしてきた。ゆえに、どこか映画の中だけのアンリアルな世界に感じてしまい、彼女の選択や行動をぱっと理解できなかったのだ。

でも、思えば、私はユリヤのような生き方に、ずっと憧れていた。臆病で、最悪にさえなりきれずに30歳を過ぎてしまった自分を、なんて退屈なんだろう、と今なお感じている。たいしたものも持っていないのに、目の前にあるものを手放せず、思い切った決断ができない。ぐじぐじ悩んで、その場で足踏みしているばかり。

彼女は、自分の人生を最悪だと感じていると思うけど、私は彼女の一つひとつの選択がうらやましい。嫉妬を感じるくらいだ。

もし私がユリヤとクラスメイトだったなら、タイプは違うけれど、案外バランスがとれて仲良くなれる気がする。彼女が連れていってくれる場所での刺激的な経験が、きっと私の人生を変えてくれる。思わず、そんなことを妄想してみる。

なかでも、アイヴィンとのタバコのシーンは、官能的で甘美。煙を介して、浮気すれすれの恋をする(恋は浮気じゃない?という話もしたいけれど、主題からそれるので、それはまた今度)。私もこんな恋愛がしてみたい、と思わずにはいられない。彼女の大胆な行動力こそが、甘く危険な恋のきっかけとなる。

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S H A R E
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東京在住。コピーライター。好きな映画は「ファミリー・ゲーム/双子の天使」「魔女の宅急便」。