子供を産んでこそ女性であるという風潮は、いまの時代も色濃く残っている。
子孫を残し種を繁栄させることが人間の務めであるなら、子を宿したことのない女性は「女性」ではないのか。
イーヤはマーシャがいれば充分だったが、マーシャは妻や母になることにこだわった。
「〇〇の奥さん」「〇〇のお母さん」と、女性が誰かの付属物として扱われることに対する疑問を現代ではぶつけられるが、その女の役割を能動的に摑み取ろうとしたマーシャは、その時代を生きていくために必死だった。
劇中では、緑色が象徴的に彩られている。イーヤは本当に緑色の服が似合っていた。イーヤが緑色の服を着ている時にマーシャは赤色の服を着て、マーシャが緑色のワンピースを着ている時にイーヤは赤色の服を着ていた。
見た目も性格も正反対の二人は、補色のようにお互いの足りないところを補いあいながら、時には傷つけあいながら、なおも地獄が続く場所で、これからも肩を寄せ合って生きていく。
それぞれの物語を語るために
「私は言葉を見つけたい。すべてのことを、どう表せばいい?」
これは映画の原案となった書籍『戦争は女の顔をしていない』に登場した女性の言葉だ。戦争から帰ってきた女性たちは、自分や家族を守るために長い間沈黙していた。
いつでも弱者は口をつぐむはめになる。強い人、勝利した人たちの物語が、歴史として後世へと語り継がれていく。人の数だけ物語はあるはずなのに、すべてがひとつの大きな物語へと集約されていく。
映画「フリー・ガイ」では、ゲームの中のモブキャラが自我に目覚め、自分の物語をはじめていく。わたしたちは誰に虐げられるでもなく、人の陰に隠れるでもなく、自分の物語を生きていいはずだと訴えかけてくる。
「戦争と女の顔」は二人の女性の物語に迫った映画だ。いつも陰となり男を照らす存在だった女性たちの物語に出会えたのは、イーヤやマーシャだった人たちが、のちに語る言葉を持ったからだ。だからこそ現代を生きるわたしたちは、背景に追いやられていた女性たちの生きる姿を見つけることができた。
いま社会は、与えられた役割を脱ぎ捨てて、個人が言葉を発信できる時代になっている。
それでもなお、大義のもとに埋もれる物語は尽きない。都合よく消費され、存在をなかったことにさせないためにも、わたしたちは絶えず自分の物語を語るべきである。口を塞ごうとする人がいれば、戦うべきである。
何を感じて、どう生きているのか。誰かのモブキャラにならず、自分の物語を語っていくことは、またその先の人たちの生きる道を照らしていくのかもしれない。イーヤとマーシャの生きる姿に、胸を打たれたように。
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■戦争と女の顔(原題:Дылда)
監督:カンテミール・バラーゴフ
脚本:カンテミール・バラーゴフ
共同脚本:アレクサンドル・チェレホフ
原案:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』
製作:アレクサンドル・ロドニャンスキー
製作総指揮:ナタリア・ゴリーナ
製作補佐:エレン・ロドニャンスキー、ミカエル・ミルクト
編集:イーゴリ、リトニスキー
美術:セルゲイ・イワノフ
衣装:オルガ・スミルノワ
音楽:エフゲニー・ガルペリン
出演:ヴィクトリア・ミロシニチェンコ、ヴァシリサ・ペレリギナ、アンドレイ・ヴァイコフ、イーゴリ・シローコフ、コンスタンチン・バラキレフ、クセニア・クテボワ、ティモフェイ・グラスコフ
配給:アット・エンタテインメント
(イラスト:Yuri Sung Illustration)