【戦争と女の顔】言葉にして語るべき、女たちの物語

戦争と女の顔 osanai

第二次世界大戦に女性兵士として従軍したイーヤとマーシャ。終戦直後、戦争の後遺症を抱えながらともに苦悩しながら生活をしていた。ある日、PTSDによる発作をきっかけに、イーヤはマーシャの息子を死なせてしまう。その悲劇をきっかけに、お互いの関係は微妙な歪みのもとで形作られていく。
原案はノーベル賞作家・スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによる『戦争は女の顔をしていない』。主人公のイーヤとマーシャを、ともに新人のヴィクトリア・ミロシニチェンコ、ヴァシリサ・ペレリギナが演じている。

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わたしはよく、戦争映画であっさり殺される敵のモブキャラに想いを馳せる。

そのキャラにも家族がいて、友達がいて、恋人がいて。もしかすると今日はお母さんの誕生日だったのかもしれない。もしかすると喧嘩をした友達と仲直りをしないまま、戦場にきたのかもしれない。いろんな人の人生が交わった先に生まれた奇跡みたいな命が、主人公の銃撃で無残にも散ってしまう。その残酷さに、いつも胸がきゅーっと締め付けられる。

でも戦争映画にとって敵のモブキャラは、映画を進めるためだけのただの記号にすぎない。そのキャラの人間性や人生なんて、これっぽっちも必要ないのである。

戦争映画はいつも男性の物語だった。女性といえば、健気に男の帰りを待ち、戦場での慰み者となり、戦後になると負傷した男を献身的に支える姿が描かれる。戦場に立ち向かう男たちを感動的に仕立てる装置として、その役割を果たしてきた。

敵のモブキャラ同様、記号的な役割しか持たなかった女たちの戦後の姿を描いた映画が「戦争と女の顔」である。絶えず静かに進んでいく物語には、ひっそりと、底の知れない狂気が潜んでいた。

人間を体の中に入れたい女の気持ち

物語の主要人物は二人の女性。イーヤとマーシャはおなじ部隊で戦争に従事していた戦友であり親友だった。マーシャはイーヤに、戦時中に産んだ子供を預けていたが、イーヤは後遺症の発作による不慮の事故で子供を死なせてしまう。戦争から帰ってきたマーシャはその事実を知ると、イーヤを責めるでもなく、その夜にひとりの男と関係を結ぶ。

それは「人間を体の中に入れたい」という衝動からだった。

「人間」とは男性器でもあり、子供を腹に宿すことなのだが、そこに女性である残酷さがみえた。のちに分かることだが、マーシャは戦時中に受けた腹部の怪我により、もはや妊娠しない体になっている。それでも子供を作ろうとするのは、女性であろうとする強迫観念だと受けとった。男性は戦争から帰ってくると英雄ともてはやされるが、戦争から帰ってきた女性は戦地妻だと揶揄され、ひどい扱いを受ける時代だった。「戦争女は食べ物を与えるとすぐヤらせてくれる」という劇中のセリフからもみてとれる。

戦時中に「妻」になったマーシャは、そうしなければ生き残れなかった。戦後に「母」になることにこだわったのは、そうしなければ生きていけなかったからだ。

自分では子供を作れない現実を叩きつけられたマーシャは、イーヤのある弱みをにぎって、代わりに子供を産ませようとする。
男性であれば自分の子孫を残す行動としてありえるが、女性が女性に産ませようとすると、赤の他人が産まれることになる。それでも子供を欲しがるマーシャは、狂気として映る。

イーヤは苦悶の表情を浮かべながらある人物との性行為を受け入れるが、一回きりでの妊娠は難しかった。
子供を待ち望むマーシャのために、マーシャと離れたくない自分のために、イーヤはもう一度性行為を試みる。イーヤは言う「わたしは空っぽ」だと。

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S H A R E
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最近会社を辞めました。登山しながら、書きながら、暮らしていけたら最高です。