そろそろ別れたい映画

osanai 2024年上半期振り返り いだてん

「あれ」は一体何だったんだろう。

そうつぶやきながら劇場を後にすることが、よくある。「あれ」はたくさんある。1秒に満たないショット、永遠に続くかと思った長回し、物語の結末、など。ベッドに入って眠りに落ちるまで「あれ」を考えるのは楽しい。でも、1ヶ月以上考えるのはちょっとつらい。だから、ある程度の決着をつけておきたい。(答えや結論を出す、とは少し違うのだけど)

悪は存在しない

ずっと分からないことは、なぜ黛の周り美しい情景がよく出現するのか、ということ。

たとえば、車中の場面、巧邸の外で待つ場面、そして巧邸の中に戻る場面。

車中での黛と高橋の会話は、本作の中で唯一といっていいほど、愉快で聞き入ってしまう。説明会やコンサルティングとの会議はムカムカするし、水挽町の町民同士の会話も、同じ町に住んでいる人との会話とは思えないよそよそしさがある。

同作を手がけた濱口監督の過去作を見れば、会話に重きを置いていることは明らかだ。だからこそ、なぜ高橋と黛の会話だけ美しくしたのだろうか。

黛が巧邸の外で、巧たちの帰りを待つ場面。煙突から生まれた異様な煙が、徐々に徐々に画面左へと忍び寄って、ついには黛を飲み込んだショットを忘れられない。まさか自分が煙に丸呑みされたことに、黛本人が気づいたかどうかは分からない。でも、観客である私たちは見てしまった。煙突から這い出た煙が急速に画面を占領し、ついには龍の輪郭を持って黛に襲いかかったことに。

これだけでも充分なのに、いつしか煙が消えて黛が巧邸に戻った時、黛の不在に気づかず取り残されたキャメラが、何とも妖艶な夕日を撮ってしまった。木々の輪郭に滲み、コンソメスープと化した黄金の夕日を。エリック・ロメールの『緑の光線』の素晴らしさの一つが、タイトル通りの、水平線と夕日が産んだ緑の光線をフィルムに収めたように、本作もまた、木々の輪郭と澄んだ空気が生み出した夕日を収めた記録的な素晴らしさがあることを、素直に認めたい。

なぜ黛とともに、これだけの場面が現れたのか。

思うに、黛が各シーンで「何もしていなかったから」ではないか。

それはもちろん、彼女が本作において何の役割もなかった、ということではない。いくつかの場面で、彼女が目的を持っていなかった、ということだ。

社内での会話は、無目的だからこその無邪気さとリズムがあったように思う。2つの夕日の場面では、ただ待っているだけ。寒くなった、あるいは暗くなったから戻っただけに見えた。

おそらく、黛以外の登場人物は、全員が目的を持っていた。家を温めるために薪を割る、父のために鳥の羽を拾う、うどんのために水を汲む。当然と言えば当然だ。何かしらの行為には、いつも目的がついて回る。それに、人は目的なしでは生きられないし、目的があるからこそ頑張れる。

でも、1日の中でほんの数分に満たない時間、目的を置き去りにできた時、自然と美しい何かが立ち上がる。なんの目的もなく、ただ行為に浸り、その場を見つめる。そんな素晴らしさが記録され、そして私たちへ映し出されていたのではないか。

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S H A R E
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映画鑑賞が趣味なんですが、毎回必ず寝てしまいます。映画館で寝落ちしない方法をご存知の方はぜひ教えてください。