つげ義春の漫画『海辺の叙景』をもとに脚本を書くが、どこか不完全燃焼の思いを抱いていた李。急逝した魚沼教授の弟に手渡されたフィルムカメラとともに、雪国へと旅に出る──。
「ケイコ 目を澄ませて」、「夜明けのすべて」の三宅唱が、つげ義春の2作品をもとに映画化。主人公・李を演じるのはシム・ウンギョン。共演に堤真一、河合優実、髙田万作、佐野史郎らが名を連ねている。
──
同じ世界に流れる、異なる時間(プロローグ)
夜20時。夕食を終えて、ひとり、部屋の中に佇んでいた。外は、しんとしている。あとはもう寝るだけ。寝てもいいし、起きていてもいい。こんなにも静かで希望に満ちた夜は、なかなかない。
窓際には小さな机があり、棚にはキャンドルや雑誌、写真集が置いてある。木でそろえた家具を中心とした、素朴だけどセンスのいい、落ち着く部屋。流れる時間が、静かで穏やか。ずっと前からここが私の部屋だったかのような錯覚を覚える。しかし、ここは古民家を改装して民泊をやっているお宿だ。
この静かな夜を、どう過ごそう。小さくそわそわ、わくわくする。ゆったりとした心地よい音楽を小さく流しながら、ベッドの上で持ってきたエッセイを開く。文字が頭に入るより先に、ふと夕方に行った温泉のことを思い出した。そこは、あまり観光客が来る場所ではなく、近所の人たちで賑わっていた。脱衣所や洗い場ですれ違った人たちみんなが「こんばんは〜」と声をかけてくれた。裸で挨拶をしたことなんて生まれて初めてで、なんだか、くすぐったいような不思議な気持ちになった。
これは1年ほど前のこと。私の旅の話である。観光名所ばかりを巡るのではなく、その町の日常におじゃまさせてもらうような旅だった。特別な景色が多いわけではないのに、いや、だからこそ、ふだんよりも感覚が研ぎ澄まされて、感じるものが多かった。
この日々を思い出したのは、今回、映画「旅と日々」を鑑賞してきたから。本作も「日常を過ごすような旅」を描いた作品だった。わかりやすい起承転結があるわけではない。けれど、観ているうちに心が和らいでくる。もはや「観る」より「眺める」というほうが近いようにも思う。登場人物たちと一緒に旅に出た感覚とでも言おうか。私は自宅から30分ほどで行ける映画館のF列16番に座って、ずいぶんと遠くの町まで旅に出たようだった。
夏の旅
「旅と日々」の中では、ふたつの旅が描かれる。ひとつ目は、夏の旅。
主人公は、韓国出身の女性脚本家・李。物語は、彼女が部屋の中で、ノートに韓国語を書いているシーンから始まる。
「#1 夏 海辺」「行き止まりに一台の車」
彼女の書く言葉が、映像となってスクリーンに映し出される。
ある夏、海に囲まれた島で渚と夏男が出会う。お互い旅としてこの島に来ていたふたりは、他愛もない話をしながら島を散策する。その日の夜、ふたりは翌日も会おうと約束して別れた。
翌日は悪天候だったが、ふたりとも約束どおり海に訪れる。おもむろに服を脱いで水着になる渚。「明日帰るから」と嵐が近づく海にずんずんと入っていく彼女を、夏男も追いかける。ふたりで魚を探しているが、気がつけば渚は先に岸にあがっていた。なおも魚を探し続ける夏男に、渚は容赦ない。「もっと奥ー!」と海岸から声をかける。このままでは溺れてしまうのでは、と私がハラハラしているうちに作品は幕を閉じ、次第に引き画となっていく。そしてこの旅が、大学の講義の中で放映された劇中映画であることに気がつく。
ペラペラの服を着て、裸足のまま靴を履き、指には包帯を巻いている渚。彼女から醸し出される少女感と色気、不思議な浮遊感と怖さの共存に、夏男だけでなく私もみるみる引き込まれていた。
学生から、脚本が映画化された感想を聞かれた李は「私には才能がないな、と思いました」と答えた。
正直なところ、私自身も目にした映像をどう解釈すればよいかわからず、わずかに混乱していた。渚と夏男は最後まで恋愛としての進展などは描かれておらず、わかりやすいメッセージ性も感じられなかった。ただ畏敬の念を感じる美しい島の風景と、少女の姿という視覚情報にばかり魅了されて、なんだかふわふわとした感覚が残った。

