リーは戦争の“なにを”撮ったのか
リー・ミラーは長らく、心から没頭できる”なにか”を探し求めていた。そして、皮肉なことに、その”なにか”は戦争とともに現れた。戦地へと赴き写真を撮ること。それが彼女の使命へと変わっていったのだ。
最初は写真家としての野心だったかもしれない。けれど途中から様子が変わる。辞める選択肢がなくなるのだ。画面越しに「ありえない」と言って踊った以前の自分にはもう戻れなくなっていた。ヒトラーや戦場が、切り替え可能なチャンネルのひとつではなく、目を逸らしたくても逸らせない現実に変わっていた。
誰もが目を背けたくなる景色を撮り、目を背ける選択肢を自ら取り払ったリー。どんなにきつい場面に出くわしても、リーは「つらい」「やめたい」とは絶対に言わなかった。むしろどれだけ止められても前のめりで前線に向かった。だけどシーンが切り替わるたび、リーは煙草を燻らせ、酒を煽る。あるときからは”精神が安定する”薬も飲むようになった。決して戦場での苦しみに打ち勝てているわけではなかった。
それでも「現場」に向かい続けたリー。彼女は従軍記者として戦場の様子も撮ったが、印象的だったのは、もう長くないであろう負傷兵や女性、子どもなど、いわゆる“社会的弱者”個人を撮っていたことだ。
リーは言う。
「目には命が宿っている」
リーが個人を撮るとき、その多くはピントが「目」に向いていた。命が終わりに近づきながらも、家族の話をする負傷兵の目、ナチスに協力したとして髪の毛を切られる女性がリーをまっすぐに見る目(この断髪は意図せずリーが翻訳した証言により行われてしまった)、ホロコースト後に生き残った少女の怯える目。
カメラに向けられた「目」から、リーはなにを感じて、何を伝えようとしたのだろう。「勇敢だったと伝えてくれ」と笑顔を向けた男性の瞳の奥に、悲しみや悔しさを見たかもしれない。自身を直視する女性から目を逸らさず撮ったことで、守れなかった自分を責めたのかもしれない。ユダヤ人少女の怯える目を撮ることで、少女の小さな体に起きた現実を伝えたかったのかもしれない。
「真実を見抜く」とは
リーは写真だけじゃなく、ある時期から記事も書くようになった。書くことに行き詰まったとき、リーは「真実を書きたい」と口にした。
別のシーンでこうも言った。
「傷にはいろいろある。見える傷だけじゃない」
リーの言う「真実」とは、社会全体をくくる“真実”ではなく、ひとりひとりの”真実”だったのではないだろうか。
リーは社会全体の勝ち負けより個人の傷に寄り添った。社会全体の善悪より、個人の悪を嫌った。それができるのは「現場」にいる人だけだ。戦場と化した街や死にゆく人しかり、そこにあるひとりひとりの現実もまた、そこにいる人しか知り得ないものだ。大きな戦争に比べるとそれは小さく見えて、撮る人はきっと少ない。だけどそれこそ、リーが目を逸らせなかった「真実」なのではないか。
映画を観る前、わたしはリーを「真実を見抜ける人」と位置づけたが、それはきっと、半分正解で、半分不正解だった。
リーはきっと、「真実を見抜く」ということをやっていたわけではない。むしろ大きな真実にかき消された小さな現実を拾い集め、伝えようとしたのではないか。そこらじゅうにある”なかったことにされそうな”現実こそ、見るべき、知るべき存在として、それらを見つけるために歩いたのでは。
実際、リーが撮らなければ、社会に露呈しなかった事実もあったはずだ。
物語後半で、リー自身が自分の傷をなかったことにされた過去が明らかになる。彼女もまた、社会から見えなくされたひとりだったのだ。