ひき合う孤独の力
物語の後半で、リーとアラートンは南米の奥地に向かい、現地の植物を使った儀式に参加する。人間が持つテレパシー能力を強化する、というその植物を飲んだ二人は、幻想の中で身体をからませながら踊る。セックスとは違う形で、彼らは身体をこすりつけあい、ふれあい、つながる。
自分が思ったことを言葉にできない。相手の言葉を受けとることができない。相手のために変わることを選ばない。自分のために変わってくれない。セックスをしてもつながれない。南米の奥地まで来て、効果が疑わしい植物を口にして、怪しい儀式に参加して、そこで生まれた幻想の中で、ようやく彼らはお互いとつながるイメージをつかむ。
しかし、そのイメージをすぐに現実に持ち込むことはできない。儀式を執り行ったシャーマンから「あんたは才能があるから儀式を続けた方がいい」と言われたアラートンは、その提案を拒否して帰路につく。その後すぐに、リーとアラートンの関係はぷっつりと切れてしまう。
映画の最後に、高齢になったリーがベッドに横たわるシーンが映される。息が荒く、動きは緩慢で、弱々しい。ホテルの一室のような、生活感のない小さな部屋のベッドで静かに横になるリーを、若いままのアラートンが後ろから抱きしめる。「抱きしめてほしい」と言えずに、抱きしめることしかできなかったリー。抱きしめても、抱きしめ返してもらうことはなかったリー。彼の幻想で、この作品は締めくくられる。
孤独。
リーはずっと孤独だった。その孤独を何とかするために、セックスを求め、つながりを求め、テレパシーを求めた。それはアラートンも同じだった。
谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」の一節を思い出す。
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
(谷川俊太郎「二十億光年の孤独」より引用)
リーとアラートンは、孤独だった。その孤独がお互いを引き寄せていた。でも、彼らはそれだけだった。孤独なまま、同じ空間で、同じ時を過ごしても、言葉を通じて語り合うことはできず、変わることもなかった。孤独に抗うための何か、あるいは、孤独を和らげるための何かを生み出すことができなかった。
彼らと同じように、僕の中にも孤独はある。「ある」というよりは「いる」という感覚だ。制御できない、生き物のような孤独が「いる」。もうずいぶん長く一緒に暮らしている。辛いことも、大変なことも多い。孤独でない方がいいと思う。でも、その孤独が引き合わせてくれた人がいて、触れることができた夜がある。孤独だったからこそ、心を震わせることができた作品がある。過ごせた時間がある。忌避感と親密さ。僕は孤独に対してそのどちらも感じている。
僕が彼らと引き合うことはないだろう。それは、僕がクィアではないからではなく、僕の孤独と、彼らの孤独は似ているようで、全く別の存在だからだ。僕には彼らの孤独がわからないし、彼らも僕の孤独がわからないだろう。
孤独は共通項にならない。
Loneliness is queer.
クィアという言葉を少し掴めたような気がした。
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■クィア QUEER(原題:Queer)
監督:ルカ・グァダニーノ
原作:ウィリアム・S・バロウズ『クィア』
脚本:ジャスティン・カリツケス
撮影:サヨムプー・ムックディプローム
美術:ステファノ・バイシ
編集:マルコ・コスタ
衣装:ジョナサン・アンダーソン
振付:ソル・レオン、ポール・ライトフット
音楽:トレント・レズナー&アッティカス・ロス
音楽監修:ロビン・アーダング
出演:ダニエル・クレイグ、ドリュー・スターキー、ジェイソン・シュワルツマン、レスリー・マンヴィルほか
配給:ギャガ
公式サイト:https://gaga.ne.jp/queer/
(イラスト:水彩作家yukko)