メキシコシティに駐在員として生活するアメリカ人のリーは、狭いコミュニティで退屈な生活を送っていた。ある日、繁華街の夜道で闘鶏を眺めていたリーは、通りすがりの青年と目が合い、その美しさに立ち尽くしてしまう。
ウィリアム・S・バロウズの小説を、「君の名前で僕を呼んで」「チャレンジャーズ」のルカ・グァダニーノが映画化。主人公リーをダニエル・クレイグ、青年ユージーンをドリュー・スターキーが演じている。
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クィア(queer)とは何か。
シンプルに説明すると「性的マイノリティや、既存の性のカテゴリに当てはまらない人々の総称」ということになる(はず)。もともと「異常なもの」「逸脱したもの」を指す侮蔑語として使われていた「クィア(queer)」は、80年代以降の性的マイノリティへの差別に抵抗する運動の中で、当事者がマジョリティから見た自分達を表現するために、肯定的な意味合いで使われるになっていった(らしい)。最近では、「性的指向(ゲイ、レズビアン、バイセクシュアルなど)やジェンダー・アイデンティティ(トランスジェンダー、ノンバイナリーなど)といった既存のカテゴリに限定せずに、多様な性のあり方を肯定する概念」として、より抽象的で、広範な意味合いで使われている(ように思う)。
語尾に()を付けすぎている。わかってる。わかってる。書きたくないが、書かなければいけない。僕はクィアという言葉を持て余している。向き合うのを怖がっている。
僕は、性自認は男性で恋愛対象は女性だ。マジョリティとして、その恩恵を十分に受けて生きてきた。恩恵を受けていることに気付かずに生きることができた。
どんな人であっても権利は守られるべきだと思っている。あらゆる差別には反対だし、加担したくない。自分の価値観や美意識を、時代や状況に合わせて更新していきたいと思っている。政治的な言葉で表現すると、リベラルということになるのだろう(名乗るほどの自覚はないし、リベラルということを理由にして何かを選ぶことはないが)。
僕はクィアという言葉を肯定的なものとしてとらえている。もっと広がって欲しいと思っている。一方で、自分がこの言葉の意味を実感を持って理解しているわけじゃないことを知っている。
BL(ボーイズ・ラブ)のマンガを読んだ。恋愛対象が男性の人たちの恋愛リアリティショーを見た。どちらもすごくよかった。心からそう思った。一方で、男性同士の肉体的な接触のあるシーン、例えばキスシーンで、気持ちが盛り上がるようなことはなかった。むしろ、心が静まるような、離れていくような感覚になった。マンガのページは他のところよりも早くめくったし、恋愛リアリティショーは他のシーンよりも画面から目を離す時間が長かった。差別を生み出すような何か、理念と論理だけでは受け入れられない何かが、自分の中に確実に存在している。
だから、この映画を観にいくのは怖かった。「クィア/QUEER」というタイトル。「みっともないほど、君に触れたい」というコピー。「一途な恋のために、地の果てまでも行く男の物語」という説明文。自分の受けとれなさに向き合うことになるのだろうなと不安で仕方なかった。
予想は半分当たって、半分外れた。
ダニエル・クレイグはとてもカッコよかったし、ドリュー・スターキーは美しかった。スクリーンに二人が映るだけで絵になった。寄り添う二人を見て、あたたかさも感じた。それでも、二人のセックスを見ているときは心がすっと離れてしまった。美しいとは、愛らしいとは思わなかった。ここでも受けとれなさは健在だった。一方で、受けとれたものも確かにあった。それは、この作品は男性の同性愛者の恋愛を描いたものではなく、人の孤独を描いたものだったからだ。