話を冒頭の暴力シーンに戻すと、この場面に限らず本作や他のリンチ作品には異なる空間が存在する。本作ならニコラス・ケイジとローラ・ダーンの空間と、ダイアン・ラッドの2つの空間。「イレイザーヘッド」であれば、通常の世界とラジエーターの中の世界、鉛筆工場の世界。
それぞれの世界は基本的には交わらない。本作ならハリー・ディーン・スタントンはダイアン・ラッドの世界に属し、ローラ・ダーンともニコラス・ケイジとも出会わない。
しかし、時に出会ってしまう。ニコラス・ケイジはダイアン・ラッドとトイレの個室で同じショットに収まり、ローラ・ダーンのすぐ横にダイアン・ラッドがやってきてしまう。
二つの空間は基本的に交わらないだけで、そのルールは絶対では無く、むしろ絶対に交わってしまうのだ。
これはイタリアのフェデリコ・フェリーニに近い感性ではないか。
「甘い生活」では前景でマルチェロ・マストロヤンニをはじめとした名前を持つ役者がドラマを展開し、後ろでは名のない役者、いわゆるエキストラがうごめいている。
しかしこの断絶は絶対ではなく、時にマストロヤンニの横で大きなネックレスを回すだけの非常に印象的な女性が登場し、マストロヤンニが羽毛を撒き散らしながら、エキストラと思われていた役者の役名を、最初で最後に聞くその名を、叫びながら見送る場面がある。
それまで絡みがないためにてっきり知らない者同士だと思っていたので、何度見ても驚かされる場面に仕上がっている。
フェリーニの映画には口紅で顔を真っ赤にした未亡人が出てくるかもしれない。リンチの映画にもフェリーニの映画にも女性が溢れるし、同じ音楽家と長くコラボもしている。案外気が合う二人かもしれない。リンチが臨終のフェリーニをお見舞いしたのは偶然ではなかったのだ。
そしてこの映画で忘れられないのは顔と歌そして演奏だろう。セックスやドライブシーンでは頑なにローラ・ダーンとニコラス・ケイジを同じショットに収めるし、つい何度も言及してしまった口紅で真っ赤に染まったダイアン・ラッドや汚いつけ歯を全開にしたウィレム・デフォーも忘れがたい。
歌と演奏の場面も同じ強度を持つ。ニコラス・ケイジのエルビス・プレスリーに聞き惚れ、レストランやバーでは必ずミュージシャンの生演奏があり、聞き惚れてしまう。