【ワイルド・アット・ハート】ワイルド・アット・ハート=ブレッソン×フェリーニ×クロサワ

osanai ワイルド・アット・ハート

恋人ルーラの前で襲いかかってきた男を返り討ちにし、殺してしまったセイラー。仮出所中にルーラを連れてカリフォルニアへと旅に出たセイラーは、逃避行の果てに──。
監督は「ブルー・ベルベット」「エレファント・マン」のデイヴィッド・リンチ。旅に出た男女をニコラス・ケイジ、ローラ・ダーンが演じている。

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デヴィッド・リンチを「カルトの帝王」と呼んで神秘化するなんてもったいないことをせず、真正面から迫ってみようと思う。亡くなるまでそんなこと考えもしなかった。が、久しぶりに見た「ワイルド・アット・ハート」に、最もカルト感が少ないとされるが紛れもなくデヴィッド・リンチの作品に、なんとか迫ってみる。決して孤高の天才などではなく、響き合う監督たちがいた事を示してみたい。

まず驚いたのは冒頭のニコラス・ケイジの暴力シーンにおけるダイアン・ラッドのショット。ラッドはケイジのガールフレンド(ローラ・ダーン)の母親という役どころ。「ガールフレンドのお袋とチョメチョメしようとしただろ」と難癖をつけてきた男を殴り、階段上から投げ落とし、ローラ・ダーンの叫びなどお構いなく、画面外に響くヘビーメタルの旋律に呼応するように暴力を振い続ける。

この一連の場面を見つめるラッドのショットが何度か挟まれるが、彼女はニコラス・ケイジとも、ローラ・ダーンとも同じショットに収まらない。にも関わらずダイアン・ラッドが階段の上にいて確実にケイジたちを見下ろしていることに疑念の余地は無い。このショットに気づいてしまった時は本当に驚いた。

普通ならば位置関係を示す引きのショットを入れるものだが、デヴィッド・リンチはそんなことしない。ケイジの恐るべき暴力と、それを見つめるラッドの視線のみで、彼女たちの位置関係を立ち所に観客に把握させてしまう。

ちなみに後に続くラッドとローラ・ダーンがリビングで会話する場面でも、二人は同じショットに収まらない。別々の空間に生きている。

これはまさしくフランスの巨匠、ロベール・ブレッソンと同じ手法。濱口竜介が『他なる映画と1』で指摘しているように、「ラルジャン」に出てくる親子は同じ空間にいながらも別々のショットに配置され、会話によって同じ空間にいる事を観客に示す。

文字に起こしてみると、なぜそんな面倒な事をするのか、二人一緒に映るショットを撮れば良いのではないかと思ってしまうが、それは凡庸な発想。
映画でしかできないショット構成を通じて、リンチとブレッソンが響き合っている。
いつか、未亡人が口紅で顔を塗りたくるブレッソン映画にも出会えるかもしれない、と夢を見ずにはいられない。

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S H A R E
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映画鑑賞が趣味なんですが、毎回必ず寝てしまいます。映画館で寝落ちしない方法をご存知の方はぜひ教えてください。