「運命の人」という言葉は、人生で一人きりしか出会うことのない特別な存在を想起させる。だけど、近ごろ私が発見したのは、どうやら「運命の人」は一人ではないということだ。
それどころか、「運命の人」はあらゆる場面に現れる。
家族や親友のような一生モノの札がついた人だけじゃなくて、結局結ばれなかった恋人未満のあの人や、幼い頃に互いの家でよく遊んだけれどもう何十年も会っていないあの子、バイト先の居酒屋で時々同じシフトで働いた同い年のあの子に、夜行列車のコンパートメントで同室になった穏やかな親子。
ほんの少し言葉を交わすだけ、すれ違うだけの相手にも縁がある。私はすべてを「運命」だと感じる。
疾走するぼやけた背景に、ふいに鮮やかに浮かび上がる人。それがたとえ束の間だとしても、私の意識がその存在を捕らえる。それだけで十分に「運命の人」ではないか。
そういう意味では、人とのかかわりも、印象深い散文のようだ。
甘いものもあり、苦いものもある。センチメンタルなものも、シリアスなものもある。コミカルなものも、ノスタルジックなものもある。
無数の人とのかかわりを綴り合せて、人生が輝く。
命が終わりに近づく予感の中で、マーサは、とりとめもなくよぎる過去の出来事を語り始める。
娘との関係、娘の父親とのいきさつ、ジャーナリストとして訪れた戦場、二人にとって共通のかつてのボーイフレンド、彼女の死生観につながる映画。
二人の女性は、大きな窓のある病室で、居心地の良いマンハッタンの部屋で、コーヒーショップで、静かな森の中で、そんなふうに散文を語る。饒舌さは増していくけれど、何かを回復しようとしているわけでもない。ただ、思いついたことを思いつくまま。
しかし、綴り合わせれば、そこにマーサの人格が浮き上がる。