作家のイングリッドは、かつての親友マーサが病魔に侵されたことを知り再会する。しかし病気は進行、マーサはいつしかこれ以上の治療を望まず、安楽死を希望することになるのだが──。
シーグリッド・ヌーネスの小説『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』を、ペドロ・アルモドバルが映画化。主人公のふたりをティルダ・スウィントン、ジュリアン・ムーアが演じている。
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人生は散文の集合でしかない。主題やプロットのある物語ではなく、ムードも文調も不揃いなエピソードの集合体だ。
とりとめもない無数の散文を綴り合わせ、後から「人生」と題名が付く。しかし、まるで無作為に見えて、そこには自ずと「人格」が浮かび上がる。
そういうイメージが、私にはある。
先月、あるホテルのブッフェレストランで、5歳くらいの女の子が派手に転ぶのを見た。
彼女はホールケーキ用の大きな箱を両手で持っていたので、転んだ拍子にその箱が床に落ち、中のケーキは見事に崩れ、生クリームと苺のデコレーションが台無しになってしまった。当然、女の子は大泣きし、それを父親らしき人が懸命になだめていた。
あれは、誰かのための誕生日ケーキだったのだろうか。
家族で訪れたブッフェディナーの最後に、何かをお祝いするために特注したケーキ。バースデーソングを歌ってロウソクを吹き消す楽しい未来を奪われて、そりゃ泣いちゃうよね。
だけど、大丈夫。それは悲しい思い出にはならない。大事なケーキをぐちゃぐちゃにして大泣きしたその記憶は、無事にケーキを食べた記憶より、ずっと特別な思い出になる。
何歳の誕生日にどんなケーキを食べたかは思い出せなくても、そのとき、転んで崩れたケーキが放つ甘い香りやパパが掛けてくれた優しい言葉、泣きはらした喉の痛みは、この先何度も思い出す。大人になって大切な人と誕生日を祝うとき、「小さい頃、こんなことがあってね、大泣きしたよ」と愛おしい気持ちで振り返る。
予定調和な筋書きよりも、脈絡を遮断するエピソードの方が、ずっと記憶に残る。そういうものの綴り合せで、人生は輝く。