阪神・淡路大震災時に起こったトラウマ反応を内側から綴る
精神科医を志す最中、和隆は映画館で終子と名乗る女性と出会った。のちの和隆の妻である。精神科医として多忙な日々を過ごす中、妻との間に娘を授かり、和隆の人生は順風満帆かに見えた。しかし、突如襲いかかった未曾有の大震災により、和隆のみならず、終子と娘の人生までもが翻弄されていく。
阪神・淡路大震災が起こった当初の神戸市内の病院は、まさに野戦病院さながらの光景であった。薬も備品も人手も足りない中で、患者だけがあふれ返る。あちらこちらで聞こえる悲鳴は、患者のものだったり、家族を失った遺族のものだったりした。
和隆は、妻と娘を大阪の実家に避難させ、病院に泊まり込む形で診療に没頭する。余震の恐怖も重なり、多くの患者がパニックを起こす中、和隆の心身も徐々に衰弱した。そんな折、日報新聞社文化部の新聞記者である谷村が、和隆のもとを訪れる。
「被災地のことを、内部から書いてほしいんです」
外部からの情報ではなく、内側から、和隆の目から見た「震災のリアル」を書いてほしい。その依頼を、和隆は当初断った。しかし、できない理由をあれこれ並べたのち、過去に自分が読んだ書物の一節を思い出す。
「理由がいっぱいあるのは、ないのと同じや。決定的な理由がないから、いっぱい並べるんや」
かつて友を励ました台詞が、和隆自身に返ってきた。覚悟を決めた和隆は、震災により人々が受けた心的外傷や避難所の現状を綴る連載『被災地のカルテ』を開始する。
助けを求める人を見捨てて逃げた。罪悪感に苦しむ女性の独白
避難所の人々は、誰もが明らかに衰弱しきっていた。固い体育館の床に、薄い敷物だけを敷いて寝る睡眠環境。四六時中、他人の気配や声がまとわりつく日常。食事が満足に行き届かないケースも多々あったろう。疲労からくる苛立ちは伝染し、人から余裕を奪っていく。
和隆は、避難生活に疲れきっている人々に根気強く声をかけ続ける。だが、中には和隆に声をかけられることさえ迷惑がる人もいた。ある女性は、語気を強めてこう言い放った。
「あの人、精神科にお世話になっとるらしいよって噂になったら困るわ」
その女性の目には、怯えの影が色濃く映っていた。精神科にかかると、変な噂を立てられる。そのような社会の風土が彼女の不安を煽り、不調を隠さねばと思うに至ったのだろう。
しかしながら数日後、この女性は保健室に待機する和隆のもとを訪れた。主な訴えは不眠の症状だったが、奥底に抱えていたのは、あまりに重すぎる罪悪感だった。
阪神・淡路大震災では、広範囲で火災が起きた。和隆のもとを訪れた女性は、避難する最中、「誰か助けて」という悲鳴を聞いた。しかし、助けに戻れば自分も焼け死ぬ。自分が生き延びるだけで精一杯の状況で、彼女はその声を振り切って逃げた。客観的に考えて、致し方ないことだと思う。だが、当事者の心は、“外側の冷静な意見”に追いつかない。理性と感情は別物で、「理解すること」と「納得すること」は似て非なるものだ。
「今でもその声が聞こえるんです。助けて、誰か助けてって。いつか、この声から解放されるんでしょうか」
一面焼け野が原になった市街地の光景をニュースで見たのは、私が中学生の頃であった。あの時の衝撃を、今でも覚えている。当時の私は子どもだったこともあり、亡くなった人の無念や、怪我人の苦痛にしか目がいかなかった。だが、実際には生き残った大勢の人たちが、心的外傷に苦しんでいた。心の傷は、目に見えない。だが、その傷は時に臓腑の奥深くに食い込む。