映画が進むにつれて、ドリスはフィリップにいろんなジョークをぶつけたり、こころにズカズカ入り込んでいく。すごいぞドリス。わたしには無理だ陽キャのコミュニケーション〜〜〜!!!だけど率直なぶん、ヒヤヒヤもする。というかしっぱなしだ。大丈夫これ?そんなこと言っていいの?いやダメだよね。ドリスの発言を切り取ってSNSに載せたら炎上不可避なものばかりだ。
でも、会話ってパブリックなものだけじゃない。もちろん差別につながることや歴史的に使ってはいけない言葉はある。それでもドリスの言動はフィリップを動かしたし、それを見てこころ動かされたわたしもいるのだ。ふたりの間では成立していて、それはふたりだけのコミュニケーションなのだ。
例えば、SNSにふれていると言葉がしぼむことがある。
自分の気持ちを文字に起こそうとしたき、クッキーの生地を型抜きするように文字にあてはめていく。そんなとき、「誰か」を意識しすぎるとどんどん型が小さく小さくなっていく。
これは言って大丈夫かな?
誰かが嫌な気持ちにならないだろうか。
指摘されたり、問題になるかもしれない。
結局、なにが言いたかったのかわからない当たり障りのない言葉が錬成されて、でもそれにちょっと安心している自分もいたりして。ほんとうは、誰かを傷つける(かもしれない)言葉でも、ときには相手に届く言葉になりうるのかもしれないのに。今のSNSではちょっと無理である。
「誰か」を意識しすぎるあまり、言葉がだんだん自分のものではなくなっていく感覚。
インターネットで知り合った書き手さんが、ある日鍵アカに移行したり。安心のために特定のひとにしか読まれない場所でだけ書いていたり。そういう場面を見かけることが多くなった気がする。
もしかしたら、日記や限られた相手への発信が増えているのは、こういう感覚に疲れたことへの反動なのかもしれない。
それにふつうの言葉でも、相手を傷つけることがある。「好き」「ありがとう」「あなたが大切だから」一見ポジティブに見える言葉でも、相手次第では呪いにもなる。自分勝手な言葉には、常に相手がいない。
言葉は、誰かを傷つけるかもしれない。でも、意識しすぎるとしぼんでしまう。そうすると相手に届かない。このあたりのバランスが難しいところ。
パソコンやスマホ、ネットワークを介したコミュニケーションが増えた今、人の目を見て話すのは難しい。でも、ついつい忘れがちになるけれど、その先には人がいてこっちを見たり見なかったりしている。それは変わらないはず。
人の目を見て話す。自分の言葉で伝える。
相手と「最強」になるには、結局のところ自分の言葉で伝えるしかないのだ。
誰かを傷つけるかもしれない。
もしかしたら、つらい言葉に受け取られるかもしれない。
でも、「こんなことがあったのだ」「わたしはこう思ったのだ」をちゃんと伝えたい。
相手のこころに、ほんのちょっとだけ踏み込む。自分の言葉だからこそ怖いけど、それがきっと最強への一歩だから。
人の目を見て話すことが難しい現代でも、ここぞというときに相手を思って選んだ言葉は届く。たぶん。……きっと。そう、信じて。
ドリスのように、軽やかな勇気を持って話していけたらいいな。ときどき釣りや漫画、自分の好きなことを織り交ぜながら。
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■最強のふたり(原題:Intouchables、英題:Untouchable)
監督:エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ
脚本:エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ
撮影:マチュー・バドピエ
編集:ドリアン・リガール=アンスー
音楽:ルドヴィコ・エイナウディ
出演:フランソワ・クリュゼ、オマール・シー、オドレイ・フルーロ、アンヌ・ル・ニほか
配給:ギャガ
(イラスト:水彩作家yukko)