リモートワークがあたり前になってもう数年。だんだんリアルで会う機会も戻ってきたけれど、一定はパソコンを介して会うことが生き残った。
だって……楽なのだ。圧倒的楽。物理的な移動がないからスケジュールが合わせやすいし、記録も残せるし、そのまま話した内容を自動でテキストに書き起こしてくれたりする。なんだこれ。楽すぎる。
ひとは楽を一度味わってしまうとなかなか戻れない。便利の引力はすごいのだ。15分刻みで指定のURLを渡り歩き、話したり、聞いたり、伝えたり、無言で頷き続けたりする。それがいつでもどこからでもやれてしまう。
ノートパソコンの分割された画面。そこで話している人をいくら見つめても、目は合わない。ディスプレイとカメラは別々で、行ったり来たり、あっち?こっち!?どっち見ればいいねん??とか思いながら、日々なんとかこなしている。そもそも物理的に目が合わないコミュニケーションなのだ。
ほかにもSNSやチャットツールなど、「なにかを介して」のやりとりがあたり前になった。学校の授業もリモートでやることもあるらしい。対面よりもパソコンやスマホに話しかけるほうが圧倒的に多い毎日だ。
人と会わないコミュニケーションがふつうの今、目を見て話しましょうのハードルはとても上がっている。大切なことだけど、現代では無理ゲーがすぎる。
池田先生、今ならなんて言うのだろう?
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「最強のふたり」に好きなシーンがふたつある。
ひとつは、フィリップとドリスが出会うところ。
首から下が動かず、顎で電動車椅子を操作するフィリップが介護者を雇うための面接のシーンだ。
他の候補者は、秘書のマロリーを主軸に話しかけていて、フィリップのことを「介護の対象」に見ている。そんな中、『もう2時間待ってる』としびれを切らして面接に割り込んだドリスは、部屋に入るやいなや失業保険用の書類を机において、交互にふたりを見る。
右、左、右、左。マロリー、フィリップ、マロリー、フィリップ、……フィリップ。気まずい間がほどけて少しずつ会話が走りはじめると、ジャブ、ジャブ、ジョーク、ジョーク、ストレート。その都度相手を見て軽口やジョークを言ったりする。気の合うパートナーとのスパーリングのような打ち合い。その会話のラリーが心地よい。
他の候補者と明らかに違うのは、ドリスはフィリップを「介護の対象」ではなく、会話の相手として見ていることだ。初対面では緊張しがちなわたしなので、ドリスのまっすぐなコミュニケーションに憧れるし、フィリップのスマートな返しもかっこいい。大好きなシーンだ。
もうひとつは、半年ぶりに家に帰ったドリスが母親と話すところ。
母親にこっちを見るように促され、見るやいなや飛んでくる『このバカ』という言葉。これは……子を持つ親としてかなりくる。めちゃくちゃくる。続く会話も、言わなきゃいけないことも、なにこれぜんぶつらい。最後の母親の表情も、短いカットだけどそこに至るまでの感情の地層が滲んで、胸がキュウとなる。
フランスでも「人の目を見て話しましょう」と教わるのかな。なんとなく、教わってる気がする。その上でのこれだ。はぁ、息詰まる〜〜〜!!!
フィリップの事情もあって、特にこの映画は視線が多くを語っている。どこを見て、なにを見ていないか。なにを考えているか。相手を受け入れているか。今はちょっと拒絶しているか。
人の目を見て話すというのは、相手を人として認識し、受け入れて向き合うということだ。大切だけど、だからこそなかなかやれない。