経糸と緯糸
「動物界」は、人間が徐々に動物の姿に変化してしまう奇病が広がっている世界の、ある親子の日々と別れを描いた作品だ。
なぜ動物に変化してしまうのか、原因はわかっていない。ある日突然、身体の一部が徐々に変わっていく。何の動物になるかはわからない。そして、野生の動物と完全に同じ姿になるわけではなく、人間と動物の中間のような姿になる(作中では「新生物」と呼ばれる)。治療法はない。発症した新生物は、政府の施設に隔離されることになっている。
妻ラナが新生物になり、施設に移送されることになったフランソワが、息子エミールと共に南フランスに移住するところから物語は始まる。
移住先で新しい生活を始めた2人だったが、ある日、移送中の事故によって、ラナを含む新生物たちが逃げ出してしまう。フランソワはエミールとともにラナの行方を必死に探すが、その最中に、エミールは身体が変化し、自身が新生物に近づいていることに気づく。
そこから、経糸と緯糸が織り込まれていくように、物語は2つの方向で動いていく。
経糸として描かれるのは、親子の関係性の変化だ。
エミールは自身が新生物に近づいていることに気づくが、父親には相談しない。彼らは決して仲が悪いわけではないが、16歳のエミールを子ども扱いするフランソワとの関係には、どこかぎこちなさがある。
新生物となった妻を必死に探すフランソワと、転入先の学校の自己紹介で「母は死んだ」と語るエミール。明るく社交的なフランソワと、人付き合いがうまくないエミール。対照的な父と子。その間に立って、バランスをとっていただろう妻はもういない。
物語の中盤で、エミールが新生物になろうとしていることにフランソワは気づく。父親としてエミールを守ろうとするフランソワ。身体の変化を隠すように伝え、兆候がバレそうな行為をするエミールを激しく叱る。
しかし、エミールは、森で偶然出会った鳥の新生物フィクスと親交を深める中で、新生物として生きていくことを静かに受け入れようとしていた。そんなエミールからは、自分を助けようとする父親も新生物を受け入れない、この世界の多数派の一人に見えるのだろう。新生物となった妻を必死で探している姿を間近で見ていても、エミールは自分が父親に受け入れられるとは思っていない。だから、いずれバレるのをわかっていながら、父親に自分に起きていることは一切話さない。
エミールが新生物にならなくても起きていただろう、思春期の父と子の微妙な関係は、不安定で、ゆらゆらと揺れている。お互いの変化を感じながら揺れ動く関係は、物語の最後に、お互いの自立と別離を伴う形で安定へと至る。
設定の強烈さに目が行きがちだが、経糸に目を向けると、この作品は王道の「親子の話」なのだ。実際に、インターネットでレビューを検索すると「感動した」、「ラストシーンで泣いた」という声がかなり多い。僕も、奇抜な設定のヒューマンドラマ作品として楽しみたかった。僕には無理だった。「人が人ならざるものに変化する」という緯糸に絡め取られて、自分がひた隠しにしてきた恐怖と向き合うことになってしまった。