このドラマは、母との関係に悩む新入社員・凛子の姿を通して、家族の関係が決して美しいものだけではないことも直視している。「家族であれば愛し合うもの、愛し合えるもの」という決めつけを押し付けることはない。同時に、誰かの死に向き合うことは、その人と自分のこれまでの関係に向き合うことなのだと鮮明に教えてくれる。
私たちはどうして生きているうちに大切な人に素直になれないのだろうか。存分に想いを伝え切れないのだろうか。明日は当たり前のように来るもので、大事な人にも当たり前のようにまた会えると思っている。その人の存在が大切だということすら、当たり前すぎて忘れてしまうことすらある。
「最後だとわかっていたなら」という詩がある。2001年9月11日の米国同時多発テロで10歳の息子を亡くした女性ノーマ・コーネットが綴ったものだ。この詩は、2011年3月11日の東日本大震災から6年後の2017年以降、毎年3月11日に岩手日報で紹介されている。
あなたがドアを出ていくのを見るのが
(岩手日報「大切な人を想う日」より引用、詩はノーマ・コーネット作「最後だとわかっていたなら」)
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう
(中略)
わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを
「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから
もし私が海外で死んだら、誰が身元確認に来るのだろう。パスポートを持たない家族が急いでパスポートを申請し、初めて異国行きの飛行機に乗り込んで、物言わぬ私の肉体に対面しに来るのだろうか。人生初の海外渡航の目的が身内の遺体確認のためだとしたら……飛行機に乗ることすらトラウマになりかねない。
私がこの世を旅立つとき、遺された人々にはあまり悲しんでほしくない。これっぽっちも悲しんでもらえないのもイヤではあるけれど、「よく生きた人生だったな。今世で会えてよかったな」という気持ちの方が大部分であってほしい。もし海外で最期を迎えたとしたら、せめて「季世はあんなに海外が好きだったから本望だろう」と思ってほしい。それがどんな年齢であったとしても。