【シビル・ウォー アメリカ最後の日】分断を理由に諦めないために

ただここにいるために

ワシントンへの移動中、リーたちは通り道の農場で、突然スナイパーに狙撃される。慌てて物陰に隠れると、そこには狙撃銃を構えている軍人がいた。彼らに、記者のジョエルが話しかける。「撃っているのは何者だ?敵なのか?」。その問いに、心の底から興味がなさそうな顔で軍人は答える。「知らない」。「お前は何もわかっていない」。

アメリカ国内の内戦だ。身体的特徴や服装、言語では敵を区別できない。そもそも、見えないところから狙撃されている。撃っているのが西部勢力なのか、連邦政府なのかもわからない。わかっているのは、今自分たちが撃たれている、ということだけ。

これが分断なら、何かを分かち合うことで、融和に向かうこともできるかもしれない。あるいは、分断したまま、つながりを作る道を見つけられたかもしれない(僕と長男のように)。

しかし、ここにあるのは対立だ。お互いに、銃口を向け合い、引き金に指をかけている。この対立を解消するには、自分が消えるか、相手が消えるしかない。

対立は状態ではなく、運動だ。その運動によって生み出されるエネルギーは膨大で、常に捌け口を探している。エネルギーを発露することで、対立という不安定な状態を打破しようとする。

対立の中に身を置き、衝突が生み出す火花と流血からジャーナリズムとしての価値を生み出してきたリー。しかし、物語の後半、彼女は対立のエネルギーを受け止めきれなくなり、写真を撮れなくなってしまう。戦場で足が止まる。飛び交う銃弾の中でうずくまってしまう。

対照的に、若いジェシーは戦場で貪欲にエネルギーを吸収していく。旅の始め、彼女は銃を持った民間人が私刑をしている場面に出くわしたときにカメラを構えることができなかった。しかし、旅の終着点、ワシントンでの激しい銃撃戦の中で彼女をかばって撃たれるリーを見つめながら、ジェシーは静かにカメラを向け、シャッターボタンを押す。横たわるリーの遺体に一瞬だけ目を向けて先に進むジェシー。

被写体には価値があるが、遺体には価値がない。目の前で起きたことには価値はあるが、過ぎ去ったものには価値がない。それがジャーナリズムであり、写真を撮るということだから。

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S H A R E
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1984年生まれ。兼業主夫。小学校と保育園に行かない2人の息子と暮らしながら、個人事業主として「法人向け業務支援」と「個人向け生活支援」という2つの事業をやってます。誰か仕事をください!