かつての彼女は、自分のためにお洒落な服や靴を買い、仕事も恋愛も楽しむ力があったはずだ。
一緒に働く同僚や、くだらない冗談を交わす友達だっていただろう。
なのに、飼い猫という立場の「愛」と引き換えに、本来の自由や自立を失ってしまう。
なんという皮肉だろうか。
「愛」によって欲しかったのは自信だったはず。
もはや孤独ではなく、加齢に怯える必要などない、ささやかでも満たされた生活だったはず。
なのに、結婚しても、あるいは結婚したからこそ尚更、彼女はひとりぼっち。
エサも愛撫もくれない飼い主。
今はもう、自分の力で首輪を外すこともできない。
その首輪は彼女の唯一の寄る辺。
夫のために手の込んだ料理を作り、オーガニック石鹸の手作り教室を開き、繊細で上品なブランド物のティーカップでお茶を飲み、リビングルームのリフォーム計画に心を躍らせる、彼女はそんな幸せな主婦。
こんなに素敵な首輪をつけているんだから、彼女が哀れな捨て猫のはずがない。
その痛々しさ、惨めさは、私にとって他人事じゃない。
そのぞっとする世界線は、私にとっても十分あり得た。
「年齢なんて記号よね」
夫の子を身籠った27歳の不倫相手を前にして、そんなこと本気で言える?ねえ、言える?
「愛に乱暴」、奇妙なタイトルをどう解釈したものか。
この作品の中に、愛の何かが描かれていたかといえば、私にはそれは見当たらなかった。
攻撃性と愛は同居できない。乱暴さによっては、決して愛を得られない。
意識が自らの欲求に向いているうちは愛に到達できない。
そう、愛は獲得するものではなく到達するものなのだ。私がそう気づいたのは、比較的最近のことだ。