【劇場版 アナウンサーたちの戦争】言葉の影響力で何をするか

知ろうとする人としない人

もうひとつ思ったことがある。電波戦はたしかに、一時的に勝利に導いたのかもしれない。だけど長期的に見るとどうだろう。日本軍が言葉の力で実際の実力よりも大きく見せてしまったがゆえに、その後アメリカから原子爆弾投下という非人道的な攻撃を受けた可能性はないだろうか。

考えてみれば、原爆は電波戦と似ているのだ。目の前で人が死なないこと。目を逸らそうと思えば心身ともに無傷でいられること。

第二次世界大戦下、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺は広く知られている。その「システム」の一端を担ったアドルフ・アイヒマンは、いかに効率的にユダヤ人を移送するかに邁進し、信じられないほど非人道的な移送システムを構築した。のちに行われるアイヒマン裁判について執筆したハンナ・アーレントは「彼は自分のしていることがどういうことか、全然わかっていなかった」と考察している。(*1) 

アイヒマンは、移送するユダヤ人を「移住希望者」と言い、手際よくユダヤ人からすべての権利を剥奪する仕組みを「双方とも満足させられるような案」と表現したそうだ。

さらにアイヒマンは、渦中のユダヤ人を前に自分の身の上を赤裸々に語ったり、出世しなかったのは自分のせいではないということを説明したらしい。(*2)罪悪感が少しでもあれば、そんなことはできないだろう。

「仕事」として戦争や迫害に加担した者同士でありながら、和田とアイヒマンは全然違う。想像する人と、しない人。正解を疑う人と、自分が正解だと思う人。何かを伝えるために言葉を使う人と、仕事で評価されるために言葉を使う人。自分の言葉に責任を持つ人と、言葉を使って責任を逃れようとする人。

いずれも、人間でいようとする人と機械になろうとする人、と言い換えられそうだ。わたしたちは、積み上げる意識ひとつで人間的にも機械的にもなれてしまうのかもしれない。

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S H A R E
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フリーライター、エッセイスト、Web編集者、ときどき広報。沖縄に10年くらい住んでます。読書と短歌と育児が趣味。