【風が吹くとき】風が止むとき

従順と無知

ジムには「従順」、ヒルダには「無知」という役割が割り当てられている(徹底されている)。

ジムは、政府が制作した「生き残るためのマニュアル」を熟読し、その内容に従って、室内シェルターを作る。家の中のドアを外して、壁に角度が60度になるようにして立てかける。そうしてできた空間にマットレスを敷き、ドアの外側にクッションを立てかけただけのものを、彼は「政府が推奨しているシェルター」だといって、安全性を疑わない。彼はマニュアルに書いてある通りにすれば大丈夫だと盲目的に信じている。不満や不安をこぼすヒルダに、「理由など考えてはいけない」、「戦時に国に従うのは義務なんだよ」と諭す。

爆発後、窓の外の風景が丸焦げになっていても、ジムは焦らないし、不安にもならない。「水がでない、電気がこないのも政府の対策の一環なんだ」、「政府はこういうときに備えている」、「いずれ緊急対策の部隊を派遣してくれる。それまで待とう」と言って、室内シェルター(とは名ばかりのドアと壁と床の隙間)で救助を待つことにする。

後半、放射線に侵され、身体中に斑点が出たときには「これは静脈瘤だ」、髪が抜けても「爆撃後のストレスのせいだ」と解釈する。ジムは終始、政府が何とかしてくれる、自分たちを誰かが助けてくれる、何か自分よりも大きいものの力を信じ、従順であろうとする。

一方、「無知」を割り当てられたヒルダは、室内シェルターを作るジムの傍らで、家事をこなしている。悪戦苦闘しているジムを手伝わずに、おやつにタルトかパイ、どちらを食べたいかを聞く。なぜ戦争になったのかがよくわかっておらず、各国の首相や指導者に対して、政策や実績ではなく、見た目で評価している。「スポーツと政治には興味がないの」と語るヒルダ。室内シェルターを作るためにドアを立てかけるのを見て、「壁のペンキを剥がさないようにしてね!」とジムに注意をする。爆撃後に、燃えてしまったカーテンを見て「保険で新しいものを買わないと」と呟く彼女は、危機感と緊迫感が欠落しており、不安や恐怖に対して鈍感である。

2人に共通して割り当てられているのは「純朴」という役割だ。ジムとヒルダが、子どもの頃に起きた戦争(第二次世界大戦)について回想するシーンがある。戦場に行かなかった彼らは、庭の防空壕で過ごしたことを懐かしみ、楽しい思い出として語り合う。もし、ジムとヒルダが実在していたら、僕らは彼らのことを「素朴で、いい人たち」と評価するだろう。2人の中に善性と人間的な温かさを見出すかもしれない。

しかし、無知と従順という役割と表裏一体である、その純朴さを僕は肯定的に受け取ることはできなかった。話が進んでいくに従って、この映画の恐ろしさの本質は核戦争と放射線ではなく、ジムとヒルダという2人の人間なのだと感じるようになった。「人間は無知と従順から逃れることはできない」ということが突きつけられているのではないかと。見ている間に、僕の中にあった反戦意識や核に対する向き合い方をどうするか、といった感情は霧散してしまった。代わりに思い起こされたのは、コロナ禍のことだった。

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S H A R E
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1984年生まれ。兼業主夫。小学校と保育園に行かない2人の息子と暮らしながら、個人事業主として「法人向け業務支援」と「個人向け生活支援」という2つの事業をやってます。誰か仕事をください!