【めくらやなぎと眠る女】蠅に肉を食い尽くされ、“空虚”になってしまったひとの存在について

突拍子もないお願いに、片桐は困惑する。なぜ「頭が禿げていて腹が出ていて、包茎で近眼なうえに乱視も入っている」自分なんかがそんな大役を依頼されるのか、片桐には皆目見当もつかない。しかし人が良く誠実な片桐はかえるくんの頼みを無下にすることもできず、みみずくんとの闘いに巻き込まれていく。

小村と片桐、このふたりに共通するのは“空虚さ”を抱えている点だ。

キョウコは元々、小村の親友であるヒロシの恋人だった。しかしヒロシはバイク事故により若くして死んでしまう。「ヒロシの死を乗り越えるために上京した」とキョウコが語っていることから、ヒロシの喪失は彼女にとって半身をもがれるほどの痛みを伴うものだったと推測できる。環境をまるごと変えざるを得ないほどの底なしの絶望が、キョウコを呑み込んだ。

その後、おそらく紆余曲折を経て、キョウコは失くした恋人の親友と付き合い、結婚する。小村はヒロシの生前から一方的にキョウコに想いを寄せていたが、キョウコは小村を「恋人の親友」としてしか見ていなかった。それでもキョウコが小村と共に生きようと試みたのは、小村の中に息づくヒロシを見ていたからだろうか。長い年月を経て彼女が次第に小村を愛するようになったとは、どうにも思えなかった。いっときでも小村を愛していたのなら、彼への置き手紙に「私に与えられるものがあなたの中には何もない」なんて綴ったりしないだろう。優しく親切でハンサムな小村は、キョウコにとってはどこまでいってもただそれだけの人間に過ぎなかった。

小村もきっと、キョウコから真に愛されていないことは気づいていた。愛したひとに「空気の塊みたい」という言葉を突きつけられ、小村は取り返しのつかないところまで損なわれてしまう。同じタイミングで退職を促されたこともあいまって、彼の根幹は激しく揺らぎ始める。まさに地震だ。小村の足元は絶えずぐらつき、崩壊寸前のところまで追いやられてしまった。自分の中身は空っぽで、虚ろで、どうしようもないほどくだらない存在なんじゃないか。そんな不安が小村を襲う。

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S H A R E
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ライター。修士(学術)、ジェンダー論専攻。ノンバイナリー(they/them)/日韓露ミックス。教育虐待サバイバー。ヤケド注意の50℃な裸の心を書く。