見てみぬふりをする、やれることをやる
日本の卵の価格が安い理由の一つに、鶏をほとんど身動きが取れないケージの中で飼育するケージ飼いが主流であることが挙げられている。単位面積当たりの卵の生産量が高い反面、狭い空間に敷き詰められた鶏には過大なストレスがかかる。傷ついてボロボロになりながら卵を産む鶏たちの卵を僕らは毎日のように食べている。
こうした現状を踏まえて、近年では動物の福祉(animal welfare)の観点から、平飼い(ケージフリー)での飼育法が広がっている。平飼いの普及率は、EUでは6割以上であるのに対し、日本では1%ほど。最近では、流通各社が平飼いの卵の取り扱いを始めたが、価格は通常の卵の2倍以上になっている。
聴きたくなかった、知りたくなかった事実を突きつけられた僕は、スーパーの卵売り場で苦しむことになった(この文章を読んだあなたも巻き込むことになるのを申し訳なく思う)。10個228円の通常の卵と、6個400円の平飼い卵を前にして、どちらを買うかを選ばなければいけない。
鶏には苦しんでほしくない。平飼いを進めている人を応援したい。お金があるなら平飼いを選びたい。でも高い。こんな金額で卵を買い続けたりしたら、生活が成り立たない。迷いながら、そのときの判断でどちらも買っている。どちらかを選べない。関心領域が広くても。正しいのがどちらかわかっていても。
この作品と同じ状況に置かれたときに、自分ならどうしていただろうか。僕は、ヘートヴィヒの母と同じように田舎に逃げていたのではないかと想像する。勇敢な少女のように壁を超えて、食べ物を届けることはできなかっただろう。でも、その食べ物を提供することくらいならやれたかもしれない。毎回ではないかもしれない。自分だってお腹が空くことには耐えられない。でも、それ以上に苦しんでいる人のために少しでも何かできないかを考えられる自分でありたい。できることがないことに絶望し、できることがあるのにやらない自分に絶望できるようでありたい。
ホロコーストが行われている最中のドイツにも善意と利害の葛藤を抱えながら、ユダヤ人を支援していた人々がいた。岡典子『沈黙の勇者たち―ユダヤ人を救ったドイツ市民の戦い』の中の一節を引用しよう。
地下鉄の車内で5歳のクラウスはお腹が空いた、お腹が空いたと泣き続けた。息子を抱き寄せてなだめようとしたとき、イルゼは洋服のポケットに何かを押し込まれるのを感じた。そっとポケットに手をやると、包装紙に包んだサンドウィッチが入っていた。驚いて周囲を見わたすと、ひとりの老女が涙ぐんだ目でイルゼとクラウスを見ていた。イルゼと目が合った瞬間、彼女は痛ましいものを見るように少し微笑んだ。
(岡典子『沈黙の勇者たち―ユダヤ人を救ったドイツ市民の戦い』より引用)
十分ではないかもしれないけど、何かをすることと何もしないのとは違うと信じたい。苦しむかもしれないけれど、それでも自ら壁を作ることなく、広い関心領域をもっていたい。うまくできなくても、それを理由にして誰かのためにやることを諦めたくない。「あなたは今、何をしている?」という、この作品のメッセージに対して応えられる自分でありたい。僕は明日も悩みながら卵を買うのだ。
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■関心領域(原題:The Zone of Interest)
監督:ジョナサン・グレイザー
原作:マーティン・エイミス『関心領域』
脚本:ジョナサン・グレイザー
撮影監督:ウカシュ・ジャル
プロダクションデザイン:クリス・オッディ
衣装デザイン:マウゴサータ・カルピウク
編集:ポール・ワッツ
音楽:ミカ・レヴィ
音響:ジョニー・バーン、ターン・ウィラーズ
出演:クリスティアン・フリーデル、ザンドラ・ヒュラー、ラルフ・ハーフォース、マックス・ベックほか
配給:ハピネットファントム・スタジオ
公式サイト:https://happinet-phantom.com/thezoneofinterest/
(イラスト:水彩作家yukko)