壁が隔てているわけじゃない
ヘス家の邸宅と収容所の間にはレンガ造りの壁がある。壁の向こうには、収容所の施設が見える。壁の高さは数メートルほど。人の姿は見えない。
壁のこちら側で、ヘートヴィヒは自分たちの幸せにしか目を向けない。彼女は、悲鳴や銃声が背後に聴こえている中で、庭に咲くダリアを子どもに見せる。ユダヤ人から押収した毛皮のコートを身にまとい、姿見でポーズを取る。来訪した母親に理想の暮らしができていて幸せと語るルートヴィヒ。ルドルフの転属が決まったときも、この暮らしを捨てたくないと強く言い張る(結果的にルドルフは単身赴任することになる)。
壁の向こう側で何が起きているかは見えない。でも、みんな知っている。壁があることを言い訳にして、見えないことを正当化して、自分たちが見ないふりをして生活していることもわかっている。
焼却炉は昼夜を問わず稼働している。死体を焼く音は、夜もヘス家の邸宅に響いている。その炎は夜中に窓を明るく照らす。小さい娘は眠れなくて廊下や洗濯スペースで体を丸めている。夜中に泣いている赤子を放置して、その横で家政婦は酒をあおっている。赤子の泣き声を聴きながら、赤く光る部屋の中で窓の外を見るヘートヴィヒの母親。彼女は娘に何も言わず、置き手紙を残して実家に帰ってしまう(娘のヘートヴィヒは手紙を読んで燃やしてしまう)。
そうしたヘス家の日常が映し出される映像の間に、赤外線カメラで撮影されたような、モノクロで解像度の低い映像が差し込まれる。その映像の中では、かごを持った女の子が監視の目をかいくぐって収容所に侵入し、ユダヤ人が強制労働させられている作業現場の土の中やシャベルの隙間に、りんごなどの食べ物を置いていくところが映し出される(この少女は、アレクサンドラ・ビストロンという実在の人物であるとのこと。しかも、撮影時の衣装は本人のものを使用していたとのこと)。
この作品を観客としてみている僕たちには、ヘス家の人々と同じように壁の向こう側は見えない。壁の向こうの悲惨な状況を描かないことで、その悲惨さを暗に想像させようとしている作品だと解釈する。壁がある。壁には、こちら側と向こう側がある。でも、それは思い込みなのだ。壁の向こうが見えなくても、少女は危険を顧みずに壁をくぐり抜けて食料を届けにいった。壁があったとしても越えればいい。見えないのなら見にいけばいい。
隔てているのは物理的な壁ではなく、人の中にある「関心領域」だ。ヘートヴィヒは、壁のこちら側を関心領域とした。少女は壁の向こう側までを関心領域とした。関心領域の境界が隔たりを生み出す。フィクションと現実の間の壁について考える。壁のこちら側でフィクションを見ている、壁の向こうには現実で虐殺が起きている。ホロコーストを題材にしたこの映画はあなたの関心領域に含まれる(だから、この作品を観に来たんだよね?)。では、今ガザで起きている虐殺はどうか。壁があることは言い訳にならないと、世界が隔てられているのではなく、あなたが隔てているのだと、この作品は感情ではなく、理性に対して伝えている。