【ミッシング】救いのない物語で、どうやって「光」を見つけるか

娘が失踪した母親の狂気

沙織里は、一言でいうと狂気だった。健やかさを手放し、なりふり構うことを一切やめた限りなく野性的な「母親」。その迫力に、母親という名の本能はいとも簡単に理性を手放すことができるのだと痛感する。だから狂気さながら、わたしは自分がそうなる想像が簡単にできてしまった。

映画を観ているほとんどの時間が苦しかったが、なかでも娘を探していない時間を観ることが辛くてたまらなかった。娘が今どんな目に合っているかわからない中、生きるために仕事に行くこと。前に進まないための喧嘩をすること。各所で描かれるその空白のシーンに、嗚咽が止まらなくなる。

苦しいシーンを見つめながら、わたしは冒頭に書いた母の言葉を思い出した。母親にとって一番つらいのは、もしかしたら子が死んでしまうことよりも、失踪してしまうことなんじゃないかと思ったのだ。

生きているのか死んでいるのかわからず、生きていたとしても、酷い暮らしを強いられている可能性は高い。それでも生きていることを信じたいと思うだろうか。死を確認できた方が楽だとは思わないか。もはやわたしにはわからない。

目にとまる女児がすべて娘に見えて、違うとわかり落胆する。そんな日々が、一体誰に耐えられるだろう。長くて暗いトンネルにいるのに、生きることを辞める選択すらできない。だってもしも娘が見つかったら、絶対に自分が抱きしめてあげたいから。失った時間をともに埋めたいから。だけど見つからない。だから物語は一向に前に進まない。これは止まってしまった人生の話だ。

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S H A R E
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フリーライター、エッセイスト、Web編集者、ときどき広報。沖縄に10年くらい住んでます。読書と短歌と育児が趣味。