【ミッシング】救いのない物語で、どうやって「光」を見つけるか

子の失踪という悪夢

映画「ミッシング」は、失踪した娘探しに尽力する沙織里とその夫・豊の疲れ果てた姿からはじまる。

沙織里は娘を失った焦燥感に加え、絶えない夫婦喧嘩と誹謗中傷に疲弊する。失踪直前に一緒だった弟を責める気持ちを抑えられず、自分のことも責め続ける。身近な人を信頼できないが、見知らぬ人の情報は鵜呑みにしてしまう。

初期には頻繁だった報道も、時間とともに世間の関心が薄れ、今や取り上げるのは地元のローカル番組のみ。夫婦はそれにすがるしかないが、番組から有益な情報を得られる日はこない。担当記者に情報提供を求めるも「精査中」と言われてしまうのが現状である。(デマや誹謗中傷から夫婦を守るという側面もあるのだが、沙織里の精神状態でそんな想像力は働かない)

とにかく情報がないため、まったくもって不確かな情報にも飛びつくが、そのたび結果に絶望する。いたずらも多く、叫び出したいほど酷いものもあった。

一方で番組の担当記者はふたりの気持ちを慮り、彼なりの誠実さで仕事を続ける。だが誠実さは仕事の評価とは一致しない。大きいネタを多く掴む後輩が出世コースに乗る姿を見て、劣等感を滲ませる。それでも自分なりの報道を模索する。が、そのもがきは「世間が求めるネタ」の名のもとに軽視される。結果として、“一生懸命”やったにも関わらず夫婦の力にはなれず、評価されることもなかった。

疲弊しきり、夫を傷つけずにはいられない妻。夫は精神的に妻を支えようと努力するが、かける言葉を間違える。そもそも彼自身も限界だ。

事件から目を背ける弟は、もはや沙織里にとって憎むべき人間のひとりで、誠実だけど力を持たない記者は結局なにもできずにその役割を通り過ぎる。仕事を割り切る上司は平穏にサラリーマン人生を終えるだろう。途方もなく夫婦を傷つけたその他大勢は、本人たちは一切の傷を負わない。

これはフィクションではない。今もどこかで起こっている日常であり、登場人物はどこにでもいる普通の人たちだ。

夫婦に接触する登場人物にあきらかな悪人はいない。というか直接関わるほとんどが善意の人だ。無言の善意だって数多く存在しているだろう。

だけど善意によるささやかな行いを踏みにじるように、すこしの悪意が猛威を振るう。すこしの悪意の出どころは、情報のみにより夫婦を知る、見ず知らずの他人だ。

すこしの悪意とは、好奇による”いたずら”と言い換えることができるかもしれない。暇つぶし程度の労力で、たとえば親指一本で、30秒ほどの時間で、夫婦を絶望に追いやることができる。あまりにもひどい、あまりにも生々しい現実だと思った。

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S H A R E
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フリーライター、エッセイスト、Web編集者、ときどき広報。沖縄に10年くらい住んでます。読書と短歌と育児が趣味。