とにかく周平自身も、彼を取り巻く環境もどっちつかずの中途半端だ。
その設定が巧くてリアリティがあり、脚本も担当した二ノ宮監督の腕が光る。例えば、幼なじみとは少し足を延ばせば会える距離にいるから、かえってずっと会いに行かず不義理してきた。定時制高校の教頭という肩書も絶妙である。定時制には働きながら真摯に学ぶ生徒も多いと思うが、世間からは偏見の目で見られがちだ。教頭は高い地位だけれど、トップではない。周平も「本当は校長になりたかった」と吐露する。日々の実務はそつなくこなすが、そこまで仕事に愛着があるわけではなさそうだ。「恵まれているはずなのに、なんでやろうね」と自問自答する。
不幸でもないけれど、幸せとも言えない。その状態がいちばんやっかいなのかもしれない。それはある意味、楽だからだ。
ナンバー2の地位は物足りないが、トップほど責任は重くない。日々繰り返される人との付き合いはテキトーにこなしていれば、傷つくこともない。
中途半端な日常は静かな怪物のように、いつの間にか人の心をくるみ込む。そして、その生ぬるさの中に安住させて、人が心の底で本当に欲しているものを埋没させていく。
「逃げきれた夢」というタイトルは解釈が難しい。ここで言う夢とは寝ている時に見るものなのか、やりたいことや目標を指すのかよく分からない。それとも、両方の意味を含んでいるのだろうか?そう言えば、夜見る夢には人間の潜在意識、つまり自分でも気づかない本当の自分や欲望が現れるという。
周平は認知症の父親に会うために故郷の施設を訪ねて、最近見た夢の話をする。それは小学生の頃、現実に体験したこと。病気の母親に代わって、父親が学校のレクリエーションに参加してくれたが、本当は母親に来てほしくて、父親が来たのが恥ずかしかった。ところが、父親が担任の先生の物真似をして、級友たちを笑わせてくれた。「後にも先にも、あんな親父を見たのはあれっきりだった。堅物だったのに、なんでやろうねぇ」。
厳格な父親は、実はとても子ども思いだったのだろう。息子に肩身の狭い思いをさせたくないために、必死でおちゃらけて見せたのだ。