会話をしない大人たち
フキの父親は、末期がんを患っており、自宅療養を繰り返している。父親とフキは話をしているが、どこかぎこちない。病院でお互いが書いたメモを交換し合うシーンが出てくるが、そこに会話はない。2人で競馬場に行くシーンでは、2人が見るのはレース場でお互いではない。フキが衰弱している父親を遠くから見ることはあっても、父親がフキを見つめることはない。2人が目を合わせて話す機会はほとんど描かれない。
企業で管理職として働く母親は、夫のケアと子育てと仕事を抱えて、常に余裕がない。一緒に暮らしているフキに依頼や指示をするが、フキの話を聞くことはほとんどない。フキが何を考えているか、何を思っているか知ろうとしない。生活に追われる彼女は鈍感だ。フキの前で、夫が死んだ後の話をしても、フキのために準備した喪服を見えるところに置いていても気に病むことはない。
たまたま知り合った同じマンションに住む若い女性は、フキがテレビの真似をしてかけた催眠術を受けて、夫が亡くなった顛末を語る。初対面の11歳の少女の前で、彼女は誰にも語ることができなかっただろう、そして、誰も聞きたくなかっただろう生々しい本音を口に出していく。フキはその話を聞きながら、目を瞑って話す女性の前から離れて、部屋の中を物色し始める。会話は成立していない。語られる言葉が静かに空間に放り投げられていくだけだ。
塾で出会った、同い年の女の子の隣に座ったフキは「森のくまさん」を歌い始める。女の子は最初は戸惑うものの、フキにつられて、小声で輪唱を始める。新しく友達ができるシーンだが、ここでも会話はない。その友達との遊びは「お互いに催眠術をかけ合う」、「一方が隠したものをもう一方が探す」といったもので、共同で何かを作ったり、話したりするような遊びをしているシーンは描かれない。
友達の母親は、フキの目を見て話す。自分に向けられた言葉を受けとったフキは、「はい!」と他の誰と話すときよりも明瞭に返事をする。しかし、この女性は本音を語らない。汚れた靴下で家を歩いてるフキを見て、「新しい靴下をプレゼントするから履いてみて」と話しかける。靴下を替えるフキを笑顔で見ながら、フキが脱ぎ終わった靴下をビニール袋に入れてしっかり結ぶ。
感情や考えを言葉にすること。相手に向き合うこと。言葉を尽くして伝えること。生のまま伝えないこと。加工して伝えないこと。コミュニケーションの「適切」はいつも揺れ動いている。だから、伝える側も受けとる側も一生懸命考えなければいけない。工夫を尽くさなければいけない。しかし、フキの周りには、そこまでやる大人がいない。一方的で、断片的で、投げやりなやりとりが飛び交っているだけだ。