では、女は?
多くを語らない砂の女の目からは、穴底に何が見えていたのだろう。
砂に埋もれる家、たった一人で暮らす女。
村人が仕掛ける罠の一部に組み込まれ、その罠に落ちた男の世話を焼きながら、ひたすら砂を掻き続ける。その日々はあたかも奴隷のようだが、彼女は自らの意志でその生活を選んでいるようにも見える。
男が女に「外に出たくはないのか」と問えば、「いいえ。だって、ここには砂があるもの」と答える女。
夫と子供は砂に呑まれて死んだと言った彼女だが、本当は砂まみれの生活に嫌気が差した夫に捨てられ、取り残された過去があるのかもしれない。
男が否定しても「やっぱり東京はいいんでしょう」と繰り返すのは、自分は男をつなぎとめることのできない退屈な女なのだと、嫌というほど理解しているからかもしれない。
担架に乗せられ医者に連れられようとするその瞬間さえ、彼女は自分の命の危機よりも、男を砂穴にひとり残すことを恐れた。その怯える瞳には、孤独に舞い戻ることへの恐怖と、拭いがたい自己不信がにじみ出る。
砂の中にさえいれば、男にとって自分は唯一の女。
砂穴という極限状態の中でだけ、男は女を求めてくれる。
男がいなくなってしまえば、女は再び、冷たく湿った布団でたったひとり寝なければならない。
女を長く閉じ込めていたのは、果たして砂だったのだろうか。
本当は白馬に乗ってなどいない男を、果てなく待ち続ける砂の城のお姫様。
砂が囚人を閉じ込めるのではなく、幻想が囚人をつくり出すのだ。
かつて青い胸は、旅をした。
世界のどこかにあるはずの「何か」を探して。
日常と隔絶したこの世の果て、澄みわたる静寂の星空。
星のかけらが砂になり、海峡の対岸できらめいていた。
孤独ごっこができたのは、本当の孤独など知らなかったから。
「好きでも別れなければいけないときがあるのよ」と言った大人の女性に「本当にそんなときがあるんですか」とまっすぐ言い返した二十歳の私。
若さは無敵だった。無敵に自由で、どうしようもなく不自由だった。
砂には形がない。
自由とはこういうものという定義は、たやすく波にさらわれる。
ただ、自由が欲しくても、旅に出る必要はない。世界の果てを探す必要もない。
「ここにいる」という選択を自ら認めることさえできればいい。
自由とは、摩擦の中で確かめるもの。砂嵐の中で、じっと目を凝らすもの。
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■砂の女
監督:勅使河原宏
原作:安部公房『砂の女』
脚本:安部公房
撮影:瀬川浩
美術:平川透徹、山崎正夫
音楽:武満徹
出演:岡田英次、岸田今日子、三井弘次、観世栄夫、矢野宣ほか
配給:東宝
(イラスト:水彩作家yukko)